◆健 全 な 信 仰

一九九七年八月二四日号

 ▽正しい理解と正しい判断を

それ監督は、………

教にかなう信ずべき言葉を守る者たるべし。これ健全なる教をもて人をすすめ、かつ言いさからう者を言いふすることを得んためなり

彼らがユダヤ人の昔話と真理をすてたる人のいましめとに心を寄することなく、信仰を健全にせんためなり

されど汝は健全なる教にかなうことを語れ

          テトス書一・九、十四、二・一

 使徒パウロは若い伝道者テトスに対してくりかえし、「健全な信仰」とか「健全な教を語れ」とすすめている。これはテモテという伝道者に対しても同じである。

 それでは、教会に健全でない信仰とか、健全でない教というものが存在しているのだろうか。二千年前にすでにあったことが書かれている。主イエスが毒麦のたとえで言及されていることからもうなずける。

 健全とは、バランスのとれた状態をさすと考えることが出来よう。「健全な精神は健全な肉体にやどる」と言われるが、からだのどこかに故障が出ると、精神面にまでそのかげがあらわれる。

 神さまの教会は常に悪魔の攻撃のまとであり、憎しみの対象である。私たちは内に外に絶えず目をくばらなければならない。

汝ら主にありてその大能の勢いによりて強かれ、悪魔のてだてにむかいて立ちえんために、神の武具をもてよろうべし。

 我らは血肉と戦うにあらず、政治(まつりごと)・権威、この世の暗きをつかさどるもの、天のところにある悪の霊と戦うなり。このゆえに神の武具をとれ…=@            エペソ書六・十〜十三

 主イエスは山上の説教の結びの教えに、キリストの弟子の三重の責任をお語りになった。

○正しい道(せまい門)から入れ

○真理の中にとどまれ

○真理にふさわしい実を結べ

         (神さまのみ心を求めて行う者は、             

          岩の上に人生を築く者)

 聖書の教えは、前後の関係を考えずにへんぺん語句を取り出して勝手気ままな解釈をしてはならないのだ。異端の人たちは、「聖書のどこにもそんなことは書いていない!」などと言うが、盲人が盲人を手引きするのと同じだと主イエスは警告なさっている。

 私たちはまず、へりくだって神さまのみ心を求めよう。聖書を読むときに前後の関連をよく考えよう。真理を曲解してはならない。


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