◆ノド元すぎれば

一九九七年八月三一日号

  • 主イエスに目を注ごう

ヤラベアム王、神の人がベテルにある壇にむかいて呼ばわりたる言葉をきける時、その手を壇よりのばし「彼をとらえよ」と言いけるが、その彼にむかいてのばしたる手枯れて再びちぢむることをえざりき

王、神の人に言いけるは、「請(こ)う、汝の神エホバの顔をなごめ、わがために祈りてわが手をもとにかえらしめよ=@   

             列王記略上十三・四、六

 病気をなおすという宗教が世界中に花ざかりである。

病気の治りょうだけでなく、ながわずらいをして家族を苦しめないようにというので、「ポックリ寺」まで大にぎわいという。

 貧、病、苦からのがれたいという願望は民族も時代も問わず共通のものである。たしかにながい病気とのつき合いは本人にとっても看病をする人にとっても大変なことである。

 イエスさまがこの地上で公生涯をおくられた時、病人をおいやしになったが、群衆から身をかくされたこともあった。

イエスあまねくガリラヤを巡り、会堂にて教をなし、み国の福音をのべ伝え、民の中のもろもろの病もろもろの疾患(わずらい)をいやし給う

                マタイ伝四・二三

 主イエスにとっての最大関心事はみ国の福音をのべることにあった。「人が一度死ぬことと、死んだ後にさばきをうけることとが定まっている」(ヘブル書九・二七)ことは私たちに何が本当に必要なことかを考えさせる。

肉体の病気のいやしは決して永遠の不死を意味しない。人間の霊魂の救いこそ、病いに勝たせる力の秘訣である。使徒パウロは肉体のトゲをあたえられていると言い、しかも彼の祈りは病気のいやし以上のものとして恵みをもたらした。(コリント後書十二・七、八、九)。

ヤラベアム王は、神によって立てられながら偶像崇拝を民に強制し、神のさばきを受けた。神の人は王に警告を伝えた。その確認が冒頭の聖句である。

「あなたが信じている神様に祈って私を助けてほしい」 何度となく耳にする叫びである。

エホバのみ手は短くして救いえざるにあらず、その耳はにぶくして聞こえざるにあらず、唯汝らのよこしまなる業(わざ)汝らと汝らの神との間をへだてたり=@          (イザヤ書五九・一、二)

 目先のご利益追求で信仰をだらくさせてはならない。み心ならば病いもいやされる。

   


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