• 神のきびしさ

一九九七年九月七日号

 ▽迷信、偶像から離れる

「行きはよいよい かえりは こわい」

子供の頃、ふしをつけて歌ったものだ。

せまき門より入れ=iマタイ七・十三)というイエスさまのお言葉は現代人には、きびしすぎるとうつるようだ。

「ホ、ホ、ホタルこい、あっちの水はにがいぞ、こっちの水はあまいぞ、ホ、ホ、ホタルこい」

 サラ金のこわさがとりざたされているが、ホタルのかわりにサラリーマンと入れかえるとかえ歌になりそうだ。

「良薬口ににがし」と言ってはいるものの、人にのませるときに言うだけで、自分がのむときは甘くうすめなければノドを通らない。

 真理はすべて、きびしい。この世の秩序は皆一定のルールによって動いている。人間社会も自然界も同じである。

 水と油をまぜてみる、人の好みによって油が性質をかえたとする。あるいは水と火とが勝手に性質をかえたとしたらどうなるだろうか。

 神さまが人間を救い、導き、祝福をなさる方法も、神ご自身のご性質に従っている。人間の側でいくら別の方法を考え出しても、それは決して真の救いをもたらさないのは自明の理である。

人々健全なる教にたえず、耳かゆくして私欲のまにまに己がために教師を増し加え、耳を真理よりそむけて昔話にうつる時きたらん=@ 

              テモテ後書四・三、四

 神さまとは、人間の宗教的思索の成果なのだろうか。それとも、全能の神がいらっしゃって、人間が被造物の最高の生けるものとして造られたのであろうか。

 人間がつくる宗教であるから、どのようにでも戒律をつくり、あるいはかえることも出来るだろうし、時代に即応した教とすることも出来よう、だがしょせんそのような宗教には人間を永遠のほろびから救う力はない。教祖たちもすべて神の厳しいさばきの前で苦しむのである。

 私たちは聖書を自分のつごうのよいように解釈してはならない。聖書のきびしい教を抜いたり、人間の知恵を加えてもならない(黙示録二二・十八、十九)。

 神様の救いを受けた人にとっては神様の教、いましめは喜ばしいものである。難行でも苦行でもない。楽しい道である(ロマ書五・十、十一)。

 きびしさの中に本当の自由と安心がある。その歩みの中に愛とよろこびが加えられるのである。


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