一九九七年九月十四日号 ▽失われた者をたずねて
「最悪の事態にそなえよ、しかして最善を待ちのぞめ」 ーBJー 今年は各地で災害があいついだ。地震、水害など安心しきっている地方で人々の心を大地の奥からゆさぶる勢いで襲った。 「昔からの言いつたえ」や、ほかの地域での教訓などがあっても、大半の人は注意をはらおうとはしなかった。 「この五十年間、そんな大きな津波がくるなんて話はきいたことがないから」 とある老人は海をながめながらつぶやいた。 毎年のように台風におそわれる地域の人は、建物も防災対策をほどこすし、精神的にも危機感をいだいて対処している。 統計の好きな人がいる。 「統計では一万人に一人ぐらいだということだから私は大丈夫だろう」とタカをくくってしまう。 東京両国に震災記念館がある。関東大震災の教訓と警鐘を伝えるためである。毎年九月一日にはここを訪れておまいりする人が多いが、どれほどの警告としてうけとめているのであろうか。 東京は二度の大火を経験したにもかかわらず、全く大災害に対する対策がたてられていない。道はせまく家は雑然と密集している。北海道や名古屋のように区かくされていない。今ようやく有志の集りで東京再構築のプランがつくられつつあるというが、それには八十兆円もかかるという。かつては日本の年間予算一兆円という時があったことを考えると大変である。まさに大人物による英断がなされなければ果せない事業である。 私たちは皆自分の手ではどうすることも出来ないことがある。生命、時間の流れ、将来、家族関係など、自分の願いどうりにはいかないものである。相手があったり、神様のみ手の中にあったりするからだ。 ある人は神さまに逆らって生きようとする。「神にたよるのは弱い者のすることだ」と言って、自分では財産にたよる。あるいは自分の才能におぼれるのだ。 神様は、神様を求め、従おうとする者に対して、善いものをこばみたまわないという真理を知る人は、最悪の事態に備える時にも希望を見出す。 人が一度死ぬことと、死んだのちにさばきを受けることが定まっていると知ったら、どんな備えをするか。 (一九八三) |