◆ 神 の 導 き
一九九七年十月十九日号
▽主のみ心を祈り求めよう エホバ彼らの前に行きたまい昼は雲の柱をもて彼らを導 き、夜は火の柱をもて彼らを照らして昼夜行きすすましめたもう 出エジプト記十三・二一 クリスチャンの成長過程で、誤解を生じやすいのは、神さまの導きについてである。 神さまのみ心を知り、そのみ心の中を進むのが一番幸せなことであるが、おうおうにして人は自分の意志やわがままを通してしまい、失敗をする。神さまのみ心は別の道にあったと悟るまでに時には痛い代償をはらわなければならない。 このゆえに愚かとならず、主のみ意(こころ)のいかんを悟れ エペソ書五・十七 私たちは現代仮名づかいで、み心と書くが、文語体では「意」と使っている。それは意志をあらわす。神さまのみ心ということを考える時、私たちは神さまの積極的なご意志を言うのである。 神さまのご意志には、最高のみ心と、許容されるみ心の二種るいあるとある伝道者は解釈している。必ずしも最善最高のみ心を常にえらぶとは限らない。欲望、期待だけではなく、無知のためということもある。 聖書に記されている神さまのみ心は、明白である。まずこの世に対してクリスチャンのとるべき態度は、 またこの世にならうな、神のみ心の善にしてよろこぶべく、かつ全きことをわきまえしらんために心をかえてあらたにせよ(ロマ書十二・二) 主のみ心は、私たちの職業、結婚相手、住居、学校などに限定されない。マタイ伝二二章三七〜三九節には、総括的な指針を与えられている。 イスラエルの民が荒野を旅した時に神さまは雲の柱でエジプトの軍勢とを分けられた。神の民と、罪のとりことなっている者とを分離なさったのである。神さまは罪人を救おうと願っておられ、機会を多く与えておられる。それをこばむなら裁かれるのである。 クリスチャンは、ガラテヤ書二・二十にあるごとく、自分の肉の力にたよらずキリストに頼る必要がある。 我キリストと共に十字架につけられたり。もはや我生くるにあらずキリストわが内にありて生くるなり。 感情にたよらず、明確なみ言葉の教えにまず従おう。
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