◆ 子供の幸福とは(一)

                一九九七年十一月九日号

                ▽信仰復活は個人から

                ▽家族の救いを祈ろう

エホバを畏るるは知識の本なり おろかなる者は知恵と教えとを軽んず

                  箴言一章七節

 教育ということを考えるとき、わずかな論議で結論を出そうとすることはよくないが、クリスチャンにとっては確かな指針があるので、学ぶ姿勢を保つなら必ず、しっかりした基盤を持てるようになる。

〈目標は何か〉

 ふた昔か四半世紀前には、どの子供も夢を持っていたものである。小学生の頃から、「大きくなったら僕はアナウンサーになりたい」とか、「ピッチャーになりたい」、あるいは「およめさんになりたい」などと自分のあこがれを口にしたものであった。今の子供たちは、同じ質問をされると返事につまり、とっさには答えられないという。

 有名人になるとか、お金持になることがすべてではないことはいうまでもない。しかし、将来どんな人間として活躍をしたいかという目あてがなければ、受験勉強はつらいだけであろう。

 神さまは人それぞれの個性に応じて生涯のなすべき仕事をあたえてくださる。一年でも早く、神さまのみ心を知って最短距離を走ることがその人にとっての幸福である。

 親の心の中に、子供をどのように育てたいかの目標と祈がなければ、行きあたりばったりの教育となるであろうし、それは教育とは言えないことかもしれない。

〈段階〉

 子供は小さな大人ではない、と言われる。大人の思い通りに型にはめたり、行動を求めるな、ということなのだが、その場かぎりの思いつき的なしつけや、親のしょうどうが強くないだろうか。有名な先生の講演を聞いたり、ほかのお母さんたちの自慢話を耳にすると、家にとんで帰り、やたらに口やかましく子供を叱りとばす、子供にとっては大変めいわくなことである。両親が、正しい教育理念のもとに、子供の年令と成長に応じた訓練のステップをふんでゆくなら、子供は安心して親に従うであろう。これだけ教育行革とか何とか叫ばれ、受験システムの見直しがされつつあっても、何人の親が個性ある教育を子供にあたえようとしているだろうか。ほかの子も行くから塾に行かせる。日本の親にとっては成績こそすべてのようである。やがて子供が結婚し、子供の親となる時に、自分たちが受けなかった基礎的な訓練やしつけをどのようにして次の世代に引きつぐことが出来るであろうか。

子をこらすことをせざるなかれ

◎ 暗誦聖句  ヨハネ黙示録二章十七節後半

誰も知らざる新しき名を録したる白き石を与えん


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