◆ インマヌエル
一九九七年十二月十四日号 ▽人に話すよりも
神と語る人となりたい みよ、処女(おとめ)みごもりて子を生まん。その名はインマヌエルととなえられん」これを釈けば神われらと共にいますという意なり。 マタイ伝一章二三節 「神われらとともにいます」とは何と幸いなことであろう。 この世はますます悪くなってゆくばかりである。人は自分の不幸をなげき悲しんで、「この世には神も仏もいない」と言う。これこそ人間の心の奥にひそむ神への思いではなかろうか。人間は神のさばきと、あわれみを同時に思いうかべるのだ。 「天網かいかい疎(そ)にしてもらさず」といって、善悪それぞれの応報を信じるのは、中国の賢人だけではない。 われ悩みの中よりエホバをよびしに彼われにこたえたまえり。我よみの腹の中よりよばわりしに汝わが声をききたまえり=iヨナ書二の二)とヨナは記している。ダビデも詩篇九の十において証しをする、 み名を知る者は汝に依頼(よりたのま)ん、そはエホバよ、汝をたずぬるもののすてられしこと絶えてなければなり 主イエスは神殿でささげものをする一人一人をごらんになった。その中に一人のやもめがいた。彼女は自分のささげるお金がわずかであることをよく知っていた。だが彼女にとってそのレプタ二枚は生活のすべてであった。神様へのささげものに優劣がないという信仰、そして神様は信じる者に必ず報いをあたえるおかたであるという信仰があったからこそ、すべてを捧げたのである。 求めよ、さらばあたえられん。たづねよ、さらば見いださん……=iマタイ七・七)というキリストのお言葉は、神様のごりんざいを教えると同時に、神と人との霊的な交流を訴えている。神様がわたしたちとともにいてくださらないなら、すべての労も祈もむなしい。 ダビデは詩篇二三篇にうたっている 汝わが仇の前にわがためにえんをもうけ、わが首(こうべ)にあぶらを注ぎたもう サムエル後書二四章十、十四節をみると、ダビデは人の手におちてさばかれるよりも神様のみ手のさばきをうける方がよいと語っている。 我らをしてエホバの手におちいらしめよ、そのあわれみ大いなればなり。……
神様の裁きは公正で、時にかなっており、確実である。義にうえかわく者のさいわい≠ヘ、神のこうした義をキリストにおいて見るからである。新年もインマヌエルを祈ろう。 ◎ 暗誦聖句 ヨハネ黙示録三章五節A
勝を得る者はかくの如く白き衣を着せられん=@ |