◆ 神 の 祝 福

             一九九八年一月四日号

             ▽寒風を抜けると春


ここにエホバ、アブラハムに言いたまいけるは汝の国を出で汝の親族に別れ汝の父の家を離れてわが汝に示さんその地にいたれ。我汝を大いなる国民となし、汝を恵み汝の名を大いならしめん。汝はさいわいの基となるべし

            創世記十二章一節

 もの皆春野気配で楽しい。

 はじめの登園日にあれほど泣いたり、ぐずった幼児も幼稚園を終える。だぶだぶの制服だった中学一年生は、ちょっと生意気な青年へと脱皮する。

 神さまが人間を苦しめ、罰をあたえて従わせようとしていると考えるのは間違っている。神さまは人間が祝福を受けて幸福な人生をおくるようにと願っていらっしゃるのだ。

 私たちはどこで神さまの愛よりもきびしさを、祝福よりもさばきを強調することになってしまったのだろうか。神さまに従わなかった原罪の結果、人間は神さまをこわがり、みじめな日をすごすようになった。

 神さまの祝福を手に入れたいと思うなら、神さまのお示しになる方法に従うことが一番てっとり早い。

汝の国をいでよ≠ニは、不信仰、不従順な人間の集落をはなれて、ひたすら神さまのみ国を求めよということである。日本は義理と人情のつながりが大変つよいが、イスラエルでもどこでも人間のきずなは大変つよい。これは当然である。民族によっては一人の身内を出世させるために何十人もの親族が犠牲となって成功の暁を待つというくらいだから国を出るということは生死にかかわる大事でもある。

 親族の集まりの中にあっては仲々自分の信仰を明確にすることが出来ないであろう。誰だって気まづい雰囲気や争いをおこしたいとは願わないが、時には信仰の表明が必要となることもある。神さまをえらぶか、親戚をえらぶか、という事態もおこるであろう。信仰をつらぬいたばあいでも神さまはきっと近い未来に慰めと祝福を加えてくださるはずである。

 人をおそれるならば、わなにおちいる。だが神さまをたのむならば守られる約束がある(箴言二九・二五)。

 分離することのむずかしさは、まわりの人の批判であるよりも、自分自身の心にある中途はんぱな思いではなかろうか。自分の信じるところに生命をかける人はアブラハムと同様に祝福を受けることが出来る。信仰によるアブラハムの末となる人は本当の意味で幸いな人である。

汝ら世をも世にあるものをも愛すな、人もし世を愛せばみ父を愛する愛その中になし


本ページへの問い合わせは ruthdick@mtj.biglobe.ne.jp までお願いします。