◆ 希 望 の 神
一九九八年一月十一日号
▽全能者の祝福を信じ目をあげて前進
私たちは神さまのきびしさを強調するあまりに、神さまの祝福の大きさを見失うことがありはしないだろうか。 かりに四代を七五才としてみると千代というと、一八七五〇年に及ぶことになり、比較にならないほど長期におよぶ祝福ということになる。「我のほか何物をも拝むべからず」というのは、全き礼拝と信仰を求められることである。 信仰は、神のみ言葉を額面通りに受け入れることであり、信仰の当然の果実が、信頼、忍耐、そして希望である。神からの使信(メッセージ)に対して、私が「然り、アーメン」と応対してそのように行動をするならばそれは神に対する真実ということになる。
ロマ書十五章十二、十三には希望(のぞみ)が強調される。 私たちは偶像を捨てて唯ひたすら神様を礼拝し、おつかえする時にこの希望を自分のものとすることが出来る。 世の中は変化がはげしいし、教会もその例外ではない。真実なものがしりぞけられて見せかけの力と美がはばをきかせる。だが全ての終わりではない。私たちは全能者、義なる神をあおいでいるのだから、必ずや神の義が全地に及ぶ時がくる。
我らの救い主なる神と我らの希望なるキリスト・イエス…(テモテ前一の一)″、 我らは望みによりて救われたり、目にみる望みは望みにあらず、人その見るところをいかでなお望まんや我らもしその見ぬところを望まば、忍耐をもて之を待たん=iロマ書八・二四、二五)。 神様があなたに心と精神と思いをつくして神のみを愛せとおおせになる時、希望の約束があることをおぼえよう。神は本当の愛を私たちに注がれるゆえにきびしい要求をなさるのだ。失望に終ることのない信仰に立とう。
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