◆ みじめな生き方(一)
習志野バプテスト教会週報
世の中には、ひまな人がいるもので、それを実行した人は少ない。差出人の名前がないからそんなことをやめなさいということも言えない。こういう種るいの手紙を書いている時の気持はどんなだろうか。誰かをおどかしておもしろいと思うだろうか。 若い人はいつの時代でも新語をつくり出し、また新しい意味をつけて楽しむのが上手だ。「ミジメ!」などと大きな声で笑いながら言われると、あのしめった感情はさほどみじめではなくなってしまう。 ほかの人を見てみじめと思うばあいもあれば、自分自身の状態を眺めてそう感じることもある。 ほしいものが手に入らず、自分だけがとりのこされたと思う時、みじめと感じる。あるいは、ほかの人が毎日よろこんで生きている姿をみるにつけて、自分の不安定な生き方が悲しくなることもある。 生きがいを持たない人は、どんなに物質的に豊かであっても、しあわせといえない。 むつまじゅうして一かたまりのかわけるパンあるは、あらそいありてほふれる畜(けもの)のみちたる家にまさる=@(箴言十七・一) 自分自身で何を必要としているか、何を生きがいとしているか、どこに目標を定めるか、心のよりどころは何か、などに適切な解答を見出しえないならば、その人はみじめだ。
なんじの救いのよろこびを我にかえし、自由のみたま(霊)をあたえて我を保ちたまえ 自分でも「みじめ」な状態にいることが気がつかないことがある。何となくおもしろくない毎日であるとか、何をしてもつまらないというぐあい。積極的に取りくもうとか、やってみる意欲に欠ける状態が続く。このままではいけない、何かが起こって私を前進させてくれないかとあせるが、一方では、どん底まで沈めばやがてあがってくるだろうと考えたりする。 「馬を水の所へつれてゆくことは出来ても、水を飲ませることは出来ない」たとえで、本人がやる気をおこさなければお手上げだ。
(次回に続く)
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