◆ みじめ(二)
習志野バプテスト教会週報
ダビデは自分の心の病を知っていた。そして正しい解決の道を求めた。 救いのよろこび=A自由のみたま≠と叫んだダビデは、本当のよろこびのありかを見出した人だ。 さらばわれ愆(とが)をおかせる者になんじの道を教えん、罪人(つみびと)はなんじに帰りきたるべし=i詩篇五一篇十三節)と続けた。 神様に近づき、神にかえられ、神のみ心を第一とし、神により保たれる人は幸いだ。どんなに周囲の環境が悪く見える時にも、あるいは困難に直面していても、自分をあわれむことはない。なぜなら、深い罪の淵から私たちを救い出してくださった奇跡の神は今もなお生きて働いておられるからだ。罪の奴隷であった者が神の子供とされるということは身分の変化、立場の変化である。そのことの自覚がうすれると生(なま)ぬるい水につかっているようによろこびも感謝も感激もなくなってしまう。自分の救いだけにとどまっていて、ほかの人に福音を伝えることがないならば、やがてみじめな信者の状態になる。あなたは誰かに神様の救いのみわざを証ししたことがあるだろうか。それはいつ?
涙とともに播(ま)くものは、よろこびとともに刈りとらん。その人は種をたずさえ涙を流して出でゆけど、束(たば)をたずさえ喜びて帰りきたらん 赤ちゃんが生まれる前には心配や苦労がある。大きな苦痛をおそれていてはその後の新生児誕生のよろこびはない。救いは人間の働きではない。だが、救われてからの運動(奉仕や救霊)をおこたると病弱でみじめな人となりやすい。
エルサレムにある羊門のほとりにヘブル語にてベテスダという池あり、これにそいて五つの廊あり。その内に病める者、盲人、あしなえ、やせおとろえたる者どもおびただしく臥しいたり。……ここに三八年、病いに悩む人ありしが、イエスその臥しおるを見、かつその病いの久しきを知り、之に「汝いえんことを願うか」と言い給えば、病める者こたう、 かなり長い引用聖句となったが、日頃聖書を開かない読者もおられることなので、この出来ごとの大要を知っていただこうと思うためだ。 (次回に続く)
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