◆ みじめ(三)

        習志野バプテスト教会週報
        一九九八年三月一日号
        ▽真に価値あるものは


 数年前にインドで身障者の青年がガソリンスタンドで元気に働らいているのを見た。そして教会や市場に集ってくる数人のこじきたちが元気な姿でいるのを見て、どうも釈然としない思いがした。インドネシヤでは障害者を道ばたに寝かせて物乞いをさせるという話だが、心の痛むことだ。

 メシヤ待望の熱い願いをこめたイスラエルにおいても、事情はさほどかわってはいないようであった。からだが不自由であると、どうしても迷信にとらわれやすいし、他人の口車にのせられやすくなるのは常だ。三八年間も病気で苦しんできた男にとっての唯一ののぞみは、誰よりも早く池に入ることであった。もちろんそれは病気がいやされるためである。彼がもそもそと身体をゆすり、池にむかって動きはじめると、少しでも元気な者たちが先に池に入ってしまう。しかも病気がよくなってその廊を去ってゆくのを見るにつけ、彼の心ははげしくゆれ動いた。それは自分には手にはいらないという失意とはげしい嫉妬(しっと)、そして彼に愛を示してくれない周囲の人に対してのいきどうりのうずである。

 主イエス・キリストはこんな彼の状態をごらんになって、「汝癒(い)えんことを願うか」と声をおかけになった。そう、たしかに彼の願いは水に入ること自体ではない。誰かに同情されることでもない。苦しい病いからいやされることなのだ。

 私たちがみじめと感じる時はどんな心の状態の時であろう。何かにつけて不満が出る。批判があとからあとから続いて口を出る。他人をさばいてやまないが、自分では癒やされるためにキリストをあおぎ見ることをしない状態ではあるまいか。

汝らさきには「とが」と罪とによりて死にたる者にして、この世の習慣に従い……霊の宰(つかさ)に従いて歩めり。……されど神は憐れみに富み給うが故に我らを愛する大いなる愛をもて、とがによりて死にたる我らをすらキリスト・イエスによりてキリストと共に生かし、共によみがえらせ、共に天の所に座せしめ給えり。
              エペソ書二章一〜六節

 クリスチャン生活の中にも「みじめ」な状態はおそってくる。
 勝利ある信仰生活とくらべると余りにも現在の日々の歩みがふがいなく思える。
 たしかに、クリスチャン生活に二種るいあるようだ。毎日よろこんで生活をしている人と、信仰の光が消えかかっているのではないかとさえ思える人である。

       (次回に続く)         □


◎ 暗誦聖句   黙示録三章十八節CD
白き衣を買いて身にまとい、なんじの裸の恥を露わさざれ、
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