◆ みじめ(三)
習志野バプテスト教会週報
メシヤ待望の熱い願いをこめたイスラエルにおいても、事情はさほどかわってはいないようであった。からだが不自由であると、どうしても迷信にとらわれやすいし、他人の口車にのせられやすくなるのは常だ。三八年間も病気で苦しんできた男にとっての唯一ののぞみは、誰よりも早く池に入ることであった。もちろんそれは病気がいやされるためである。彼がもそもそと身体をゆすり、池にむかって動きはじめると、少しでも元気な者たちが先に池に入ってしまう。しかも病気がよくなってその廊を去ってゆくのを見るにつけ、彼の心ははげしくゆれ動いた。それは自分には手にはいらないという失意とはげしい嫉妬(しっと)、そして彼に愛を示してくれない周囲の人に対してのいきどうりのうずである。 主イエス・キリストはこんな彼の状態をごらんになって、「汝癒(い)えんことを願うか」と声をおかけになった。そう、たしかに彼の願いは水に入ること自体ではない。誰かに同情されることでもない。苦しい病いからいやされることなのだ。 私たちがみじめと感じる時はどんな心の状態の時であろう。何かにつけて不満が出る。批判があとからあとから続いて口を出る。他人をさばいてやまないが、自分では癒やされるためにキリストをあおぎ見ることをしない状態ではあるまいか。
汝らさきには「とが」と罪とによりて死にたる者にして、この世の習慣に従い……霊の宰(つかさ)に従いて歩めり。……されど神は憐れみに富み給うが故に我らを愛する大いなる愛をもて、とがによりて死にたる我らをすらキリスト・イエスによりてキリストと共に生かし、共によみがえらせ、共に天の所に座せしめ給えり。
クリスチャン生活の中にも「みじめ」な状態はおそってくる。 (次回に続く) □
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