◆ みじめ(四)

        習志野バプテスト教会週報
        一九九八年三月八日号
        ▽信仰による世つぎ(ロマ書四・十六)


汝らさきには「とが」と罪とによりて死にたる者にして、この世の習慣に従い……霊の宰(つかさ)に従いて歩めり。……されど神は憐れみに富み給うが故に我らを愛する大いなる愛をもて、とがによりて死にたる我らをすらキリスト・イエスによりてキリストと共に生かし、共によみがえらせ、共に天の所に座せしめ給えり。
         エペソ書二章一〜六節

 救いは神様のあわれみのみわざであって私たちの働きや功績によらない。だから、たとえ私たちの生活が失敗のくりかえしであっても、そう簡単に救いがなくなるというものではない。もちろん、それだからといって意識的に神様にさからい続けるならば神様の対応があることを忘れてはいけない(テサロニケ前四・一〜八)(第一ヨハネ二・四)。

 私たちは理性的に考えることよりも、情緒に流されて行動をすることが多い。とくに日本人の特性として情におぼれやすいことは、クリスチャン生活を考える時、心したいことである。

「ある人の信仰には波がある」と表現されることがある。それは、その人の信仰生活に浮き沈みがはげしく、感情のおもむくままに行動することをいう。こういう信仰の歩みはその日の気分に左右されやすいから十分注意しないといけない。まず私たちの救いが神さまによるものだという信仰義認の基盤をはっきりさせよう。私たちが完全無欠であるとか、完成されているからという理由で救われたのではない。失敗しやすく、くじけやすい者ゆえに神様の救いが与えられているのだ(マタイ九・十二)。

 然し私たちは救われてからも、この世の習慣とか、悪魔の言いなりにつかえてすごす必要は全然ない。

 神様はあるがままの私たちを愛し、むかえ入れてくださっているのだ。母親は自分が産んだ子供をよその子供ととりかえようとは思わないであろう。あなたも私も神様に十分愛され、恵まれ、受け入れられていることを実感することが大切である。人をうらやむ思いは霧のように消え去ってしまうだろう。           □


◎ 暗誦聖句   黙示録三章三章十九節  
すべてわが愛する者は、
 我これをいましめ、之をこらす



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