◆ 礼拝の対象は?
習志野バプテスト教会週報
我らはみな必ずキリストのさばきの座の前にあらわれ、善にもあれ悪にもあれ、おのおのその身になしたる事にしたがいて報いを受くべければなり。
海はその中にある死人を出し、死もよみもその中にある死人を出したれば、おのおのその行いにしたがいてさばかれたり。かくて死もよみも火の池に投げ入れられたり。この火の池は第二の死なり。すべて生命の書に記されぬ者は、みな火の池に投げ入れられたり。 人が死んで神々の一人となり、あるいは仏となって地上の家族を見守るという考えは、聖書のきびしい警告をみる時に、無残にくだかれてしまう。 いや、宗教はみな人間がつくったものだから、恐れるには及ばない。ほかの宗教をけなすものよりも、すべての宗教を包むほうが寛大で、包容力があるからよい、という人がいる。 私たちはたしかに自分の信じるものが一番正しいし、よいと考える。どの宗教を信じる人も同じ思いであろう。そこで私たちはむなしい議論に終らせることなく、正しさの証明をこころみることが必要となる。
まことに誠に汝らに告ぐ、我は羊の門なり。すべて我より先に来りし者は、盗人なり、強盗なり、羊は之にきかざりき。 キリストの言葉は挑戦的である。真実でないものは必ず論破される。歴史を通じてキリストほど議論の対象となったお方はない。然も誰一人キリストを偽り者と証明出来たものはいない。キリストこそ神であられるからだ。ピリピ書二章十、十一に これ天にあるもの、地にあるもの地の下にあるもの、ことごとくイエスの名によりて膝をかがめ… とある。ここで有名な思想家パスカルの論法をあてはめてみてはどうだろうか。キリストが正しいとしたら他は誤りだ。キリストが誤りだとしたら信者は何を失うか。 あなたは? 死者礼拝も、靖国まいりも、祭りさわぎも、全能の神のみ前にどんな弁明が出来るだろうか。私たちは他の人人の誠実さや信心に学ぶ所はあるが、真実に目ざめてほしいのだ。
|