◆ 単純な信仰

        習志野バプテスト教会週報
        一九九八年三月二二日号
        ▽時のしるしを見分ける力を求めよう
        (マタイ伝十六章)
 


汝なやめるとき呼びしかば我汝を救えり、我雷鳴のかくれたるところにて汝にこたえ、メリバの水のほとりにて汝をこころみたり……イスラエルよ汝が我に従わんことを求む。汝のうちに他神(あだしかみ)あるべからず。汝他神をおがむべからず。我はエジプトの国より汝をたづさえいでたる汝の神エホバなり。汝の口をひろくあけよ、われ物をみたしめん
               詩篇八一篇七〜十節

 天地の創造主であられる神様が、これほどまでにイスラエルを愛し、守り、導き給うたのにもかかわらずイスラエルの人たちは、み声にきき従うことをせず、神様から離れようとした(十一節)。

 ここには神様の祝福をいただくための条件がのべられ、約束がある。

 詩篇五十・十五と五五・二二には、

なやみの日にわれをよべ
なんじの荷をエホバにゆだねよ、さらば汝をささえ給わん
とある。主イエス・キリストも、

汝明日のことを思いわずらうな=iマタイ六・三四)と語っておられる。神様はいつでも私たちの悩みを解決するための助けを約束してくださっているのだが、人間はすなおでないようだ。祈ります、と言いながら待つことをしないで自分の力による解決をいそいで、しくじる。

 試練や悩みごとを通して私たちは神様に全くよりたのみ、忠実に従うかどうか試みられる。

 現代は科学万能の時代といわれるほど機器の発達はめざましい。ところが、人間の精神や霊のこととなるとまるで無頓着のようだ。

 神様ならぬものに供え物をささげたり、まじないに頼ったりする。とくに政治の世界に多く見られることだという。コリント前書一・二一には、世は己の知恵をもて神を知らず、このゆえに神は宣教の愚かをもて、信ずる者を救うをよしとし給えり≠ニ記されている。

 人の言い伝えや人間の思考の産物ではとうてい神様の愛と忍耐、祝福の約束に考え及ばないことだ。

汝の口をひろくあけよ
 あなたの悩みの日に神様にむかって口を広くあけておられるだろうか。口を開くことよりも下を向き、口をとざす不信仰にとらわれてはいないだろうか。肉体の病いとたたかう時にも神様は私を呼べとおおせになるのだ。大きく口をひらいて呼び求めなさい、と。

 神様と人間との関係は聖書を学ぶことなくして正しい理解をすることが出来ない。然し信仰は単純に従うことから始まることを忘れまい。


◎ 暗誦聖句   黙示録四章十一節後半
汝は萬物を造り給い、
 萬物はみ心によりて存し、 
かつ造られたり 



本ページへの問い合わせは ruthdick@mtj.biglobe.ne.jp までお願いします。