◆ 神を呼ぶ特権
習志野バプテスト教会週報
人間の成功には、運、金、コネが必要だとある人は言う。運(うん)とは、ツキを好む日本人が口にする便利な手である。 学校、就職、結婚、すべてにコネ(便宜をはかる人間脈)がものをいう国のことである。有名な病院には特殊なケースの病気か、あるいは医療関係者の紹介がなければ入院することさえ出来ないいやな世の中である。
幸いなるかな、義に飢えかわく者。その人は飽くことを得ん。 この世の中には不合理、不正、不可解なことが多く、金、権力、武力を持つ者がのさばっている。 主イエス・キリストはそういう人間社会のひずみ、不義をごらんになって、この世の君であるサタン(悪魔)の支配下にある人類が、絶対的な公正、公議を願い求めて、キリストのご支配を待ちのぞむなら幸いである、とおおせになったのである。 人間がつくった宗教の多くが、人間教祖を生き神としてまつり上げ、祈ったり、ささげものをしたり、お告げをあおいだりする。そこに真実が見いだせるだろうか。 この世の社会に失望し、人間関係にあいそをつかすだけでなく、自分自身に絶望をする人は幸いである、というとムジュンにきこえよう。しかし、救いはそこが出発点となる。 信仰のない人たちが、自分の事業をうらなってもらったり、将来についてうかがいを立てたりする姿は、いかにもさまよう羊の姿である。 神さまは、主イエス・キリストの十字架を通して私たちが、まことの神さまと直接おまじわりをすることがゆるされるように道をととのえてくださった。臆(おく)することなしに、とはすばらしい約束ではないか。人は、山が荒れるからといっては山の神々に犠牲を供え、海が荒れるといっては刀や人を沈めて怒りをしずめるという。 モレクの崇拝は、残虐非道な人身御供をもたらした。バアル崇拝は今にいたるまで世界中に、太陽をおがみ、欲望の燃えるままに淫行を重ねる乱れをはびこらせた。 マモン崇拝は人間に金銭欲をあおり立て、本当に人間らしい生き方をしにくいような社会的機構変化を生じさせている。 永遠の神様に近づくことが出来る幸いはキリストの十字架によるのだ。
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