◆ 神のすべてと人の凡て

        習志野バプテスト教会週報
        一九九八年四月一九日号
        ▽収穫の前には種まきを

ヨハネ三・十六
それ神はそのひとりごを賜うほどに世を愛し給えり、すべて彼を信ずる者の亡びずして永遠の生命をえんためなり。

一、神さまは不敬虔、反抗心にみちた人間を愛して、招いておられる。

ア、神の忍耐(ペテロ後三・九)

主その約束を果たすにおそきは、ある人のおそしと思うが如きにあらず、ただ一人の亡ぶるをも望み給わず、凡ての人の悔い改めに至らんことをのぞみて、汝らを永く忍び給うなり。

イ、神の嘆き(イザヤ一・二〜六)

牛はその主を知り、ろばはそのあるじの馬屋を知る。されどイスラエルはしらず、わが民はさとらず・・・・足のうらより頭にいたるまで全きところなく・・・・

ウ、父なる神、子なる神、聖霊なる神があなたをたずねておられる(ルカ十五・三〜三二)。

失われた羊、失われた銀貨、そして失われて再び得られた息子などのたとえを通して、イエスさまは人間が神に愛されていることを示しておられる。

凡ての人は罪人である。

神は凡ての人を愛してくださっている。

神さまは人間とちがい、特定の人だけを救い、あとの人は亡ぼすとはおっしゃらない。この神さまのお招きにおこたえするかどうかは、あなたの責任である。クリスチャンは、一日も早くこのことを全世界の人に伝える責任がある。

二、人間の応答

ア、富める青年(マタイ十九・十六〜二六)

「我みな之を守れり、なお何を欠くか」イエス言い給う「汝もし全からんと思わば、行きて汝の持物を売りて貧しき者に施せ、さらば宝を天に得ん」この言葉を聞きて若者、悲しみつつ去りぬ。大いなる資産を持てるゆえなり。

三、神の凡ては、限りないあわれみと救いの招きにおいてあらわされるが、人間の凡ては、惜しむ心、あるいは、見返りを求めての凡てであることをみる(マタイ伝十九章二七節)。

人間の凡ては、自己中心である。

人間の愛は凡てに及ばず、愛されることを期待しての行為となる。

神の凡ては全世界、全人類に及び神の忍耐は、凡ての時代に及ぶ。凡ての人に開かれている救いの門を入る人は凡て救われるが、それ以外に道はない。

凡ての人は自分の凡ての思考、行動、選択に責任がある。


◎ 暗誦聖句  黙示録五章十三節



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