◆ 多忙と言う前に

        習志野バプテスト教会週報
        一九九八年四月二六日号
        ▽声を出して聖書を読もう

「聖書をいっしょに勉強してみませんか」といって一軒づつたずねてくる人たちがいる。「私…教会に行っていますから結構です」などと答えようものなら、待ってましたとばかりに教会の攻撃やら、イエス・キリストの否定をまくしたてるのだ。「論語読みの論語知らず」と言われないように、私たち聖書信仰に立つクリスチャンは、聖書にしたしみ正しい教理の理解を求めたい。

概して異端といわれる教えに熱中する人たちは、訪問者の熱心さ、ひたむきさに心を動かされるようだ。「私がいっしょうけんめい他の人に伝道することで、家族や先祖が救われるならすばらしいことだ」というので、子供を連れながら一軒づつ訪ねて勧誘をする。牧師の家へも毎週末にしつこく訪ねてくるのであるから、皆さんも根(こん)負けするほどであろう。ことわって、なお玄関から出ていかないようなら、「警察に言いますよ」という一言が必要であろう。真理を持たずして真理を持つかのような誤信で熱心な人たちであるから、やさしく迎えてキリストの福音を知らせてあげたいが、まずこの人たちが訪問中は絶対に私たちの話に耳をかしてくれることはない。(西舞子教会の出版物参照を)

それにつけても彼女たちの熱心さはどうだろう。

兄弟よ、わが心のねがい、神に対する祈は、彼らの救われんことなり。われ彼らが神のために熱心なることを証す。されどその熱心は知識によらざるなり。それは神の義を知らず、己の義を立てんとして、神の義に従わざればなり。=iロマ書十・一〜三)

私たちは聖書を読む時間について少し考えなおしてゆく必要があるのではないだろうか。朝食時とか就寝前というのも良いが、それにこだわりすぎるとあわただしすぎたり、ねむくて頭にはいらなかったりする。礼拝、集会時の説教で引用された個所を読みかえし、適用を祈ることも大切だし、系統的な学びも必要だ。

信仰の基盤づくりには、ロマ書が最適である。むずかしいが、全く理解出来ない書簡でもない。現代人のように忙しく、現実的に生きたローマ人にあてて書かれた手紙であるから、信仰の理解に応じて学ぶことがよいだろう。何回読みなおしても新しい学びが出来るパウロの記述である。

キリストの福音と、神の義に始まる珠玉の一句一句である。

わずかな時間でも、数行の聖句でもよい。一日中それについて黙想し生活に実践するのも益となる。


◎ 暗誦聖句  黙示録五章十三節




本ページへの問い合わせは ruthdick@mtj.biglobe.ne.jp までお願いします。