◆ 涙のかれた時
習志野バプテスト教会週報
わが悩みの日にわれ主をたずねまつれり、夜わが手をのべてゆるむることなかりき。わがたましいは慰めらるるをいなみたり。 これはおそろしい詩である。人間がそこまで悩みの中に埋没するかと思うと、いいかげんな気持で人生を送ってはいけないと思う。そんな苦悩を味わうことなく一生をおえることが出来るなら、しあわせである。 エドトンという人は、音楽の責任者であった。アサフという人は、人生経験が豊かで、深い思索の人でもあった。彼の詩はしばしば短調ともいえる悲しさと哀愁を帯びているといわれ、日本人には理解しやすいかもしれない。 一節から三節には悩みの中にある聖徒が神様に懇願している姿をみるのだが、絶望では終らなかった。 「我は物言うことあたわぬほどに悩みたり」 その悩みが何であったかを知れないが、胸がつまってしまったのであろう。だが今私たちは、たとえそのような状況におかれても、確信出来ることは、聖霊のとりなしによって祈りがきかれるということだ。
かくの如くみ霊も我らの弱きを助けたもう。我らはいかに祈るべきかを知らざれども、み霊みずから言いがたきなげきをもて執成(とりな)したもう。 せっぱつまった時とか、深い苦悩にある時には、なかなか新しいことを勉強出来ないであろうが、日頃、心のそなえをしているなら、いざという時に必ず助けになろう。 悩みの中にあってなぐさめを受ける方法がないわけではない。
ア、神を信じた人々に対する神のすばらしい恵みを想起する。 「おぼえる」ことは知識の手段であり、信仰の方法でもある。それは慰めの道であり、感謝と希望の道すじでもある。 ベートーヴェンは耳が聞こえなくなってからオーケストラの大曲をつくった。ミルトンは目がみえなくなってから詩の大作を口述したといわれる。 神様は私たちに無駄な経験をおあたえにならない。神を愛する者のために万事を益としてくださることを知っている(ロマ書八・二八)のであるから悲しみの中に埋もれている宝石をさがし出そう。やがて他の人の苦しみを慰める日がくるであろう。
◎ 暗誦聖句 黙示録一章三節
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