◆ 救 い (一)

        習志野バプテスト教会週報
        一九九八年五月三一日号
        ▽主の恵みを数えよう
        ▽家族のためのとりなしを

 人間は自分を中心にして物事を考えることが多い。自分にとって一番つごうのよいように動いてくれる社会や、家庭をのぞむ。居心地のよい環境、楽しい学びの場、何不自由のない生活、みんなに愛されてすごす日々など、どれも自分にとってどういうよろこびをあたえるかが、救いにつながって考えられる。

 どんなに未開の世界にも何かの形の宗教があることは、人間が神様によって造られたゆえに神を求めるのだと学者は説明する。自分中心に動くことが、まれにあったとしても、それで人間が幸福になれるとは限らない。キング・メーカーといわれるT氏でさえ、政治の最高権力を手中にしながら良心の責めにおびえたのである。軍団が大きくなっても彼の心をガードしてあげることは出来ない。良心の責めは内側からくるからである。

わが行うことは我しらず、我が欲する所は之をなさず、かえってわが憎むところは之をなすなり。…されば之を行うは我にあらず、我が中に宿る罪なり。
        (ロマ書七・十五、十七)

汝ら前にはとがと罪とによりて死にたる者にして、この世の習慣に従い、空中の権をとるつかさ、すなわち不従順の子らの中に今なお働く霊のつかさに従いて歩めり。我らもみな前には彼らの中におり肉の欲に従いて日をおくり肉と心との欲するままをなし、他の者のごとく生まれながら怒りの子なりき。
        (エペソ書二・一〜三)

 ア、とがと罪…→死をもたらす。

 イ、悪魔(=空中の権をとるつかさ)につかえている。

 ウ、肉の欲のとりこになっている。

 エ、怒りの子たち。

 罪の結果は死である。この死を生み出した罪から解かれるのは救いの一部分である。罪は人間を神様からひきはなしてしまった。そして神様の怒りが人間にくだってくる。一時的な死ではなく、永遠の死を刈りとるのがこの結末である。

 一方、神様を信じる者は、神様に義と認められ(ロマ三・二一〜二六)、自由にされ、祝福にあずかることが出来る。誰でも自分を愛してくれる人といっしょにいるのは楽しいし、よろこびだ。神とのまじわりはそれだ(エペソ二・十三)。神の愛によって生命をいただく。

 人間は何千万円かけても愛する者を死の力からうばい返そうと努力している。だが人間の生命は値段のつけようがない程尊い。

 あなたも悪魔の力から解放されて、神の子供とされませんか。


◎ 暗誦聖句  黙示録七章十節
救いは御座(みくら)に坐したもう我らの神と子羊とにこそあれ



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