◆ 主 の ご と く
習志野バプテスト教会週報
主のごとくならまほし 愛する者よ、我らいま神の子たり、後いかん、いまだあらわれず、主のあらわれたもう時我ら之に似んことを知る。われらそのまことのさまを見るべければなり。(ヨハネ第一、三の二) 十四年ほど前、フレイジャー先生におねがいして、「主イエスが今この世におられたらどのように子供を教育なさるだろうか」というテーマでお話をいただいた。 私たちは現代に生かされていることをどう思えばよいのだろうか。 二千年前には自動車もなければ電話もない。電気もなければ水道もない。それにひきかえ、私たちは大変便利な生活をおくれるのだが、私たちは幸福なのだろうか。 私たちの家庭には楽しい団らんがあるだろうか。社会で働らく人たちは、まっ正直に仕事をしていて成功をすることが出来るのだろうか。 子供たちが幼稚園に行くのをいやがったり、学生が登校拒否をしたりすることもそれなりの理由があるはずだ。まじめに、コツコツと仕事をする人が昇進するとは限らない世の中である。まさにペテロが表現した曲れる世である。 人間が人間らしい生き方をやめてそれぞれ自分のことばかりを考えるような世の風潮である。人生の嵐、試練、悲哀などを味わう時に思いおこそう、主イエスのお姿を。
神はあらかじめ知り給うものを御子の像(かたち)にかたどらせんとあらかじめ定め給えり。これ多くの兄弟のうちに、御子を嫡子(ちゃくし)たらせんがためなり。 クリスチャンの最高の目標はこれである。主イエス・キリストに似ることだ。クリスチャンの人格形成は一朝一夕には出来ない。信仰による義人は生きる。物事を信仰の眼で考え神と共に歩む人は幸いだ。
◎ 暗誦聖句 黙示録七章十七節
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