◆ 神 の 栄 光 を
習志野バプテスト教会週報
汝らのつかうべき者を今日えらべただし我と我が家とは、共にエホバにつかえん
まず神の国と神の義とを求めよ。さらばすべてこれらのものは汝らにくわえらるべし
汝ら今までは何をもわが名によりて求めたることなし。求めよ、さらばうけん。而して汝らのよろこびみたさるべし この地上において、聖書の示す完全な生き方をなさったのは主イエス・キリストである。 現代の人はキリストの生き方をみて何というだろう?「人間らしい楽しみもなく戒律にしばられたかわいそうな男」と仏教のある教祖は書いた。金力、名声、権力、数、などの今日の成功の基準からは大変かけはなれたキリストの地上の歩みであった。人はそれを神の失敗(統一教会原理)とみくだして自らの無知をさらけ出す。 使徒ヨハネは主イエス・キリストのみわざを見聞きして、主のお言葉を書きのこした。 イエス言い給う……我になさしめんとて汝の贖いし業(わざ)を成しとげて、我は地上に汝の栄光をあらわせり=iヨハネ伝十七・四) 世間で考えられているように、クリスチャンが大変消極的であるというのは決してキリストのお示しになった弟子の姿ではない。クリスチャンはむしろ積極的に仕事にとりくむのである。
汝ら悪を憎み善を愛し門にて公義を立てよ 神の栄光をあらわすのにはどのようにしたらよいのであろうか。具体的には、日々の行動であらわせよう
エホバをおそるる者よ、エホバをほめたたえよ 常に口から讃美がわきあがる人は幸いである。神さまもそのような人を祝して下さる。 かくの如く汝らの光を人の前に輝かせ。これ人の汝らが善き行為を見て、天にいます汝らの父をあがめんためなり(マタイ五・十六) だれもその良い行いによって救いを受けることは出来ない。クリスチャンが良い行いをするのは、救われた後の結果である。決して救いの条件ではない。
神の栄光をあらわすのは単に個人の責任であるばかりではない。教会においてもすべての目標でなければならない。ロマ書十五章六節に曰く、
◎ 暗誦聖句 黙示録七章十七節後半
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