◆ 真 の 一 致

        習志野バプテスト教会週報
        一九九八年六月二八日号
        ▽キリストの肢体として


「けんそん」も「愛」も正しく理解する人が多くはない。

 自分は愛が深い、とか、自分は謙遜だと考える人が集っても一致があるわけではない。

 へりくだりということは、自分を売りこんだり、話題の中心になることを求めないで、全体のことを考える。

 真実の教会の一致をさまたげるものは何か。悪魔は分裂をおこすことに熱心だ。

 世的な考えと世的な行動は教会を毒するものだ。とくにまちがった教理は人間の思いをこの世にならわせようとさせる。「目的がよければ手段をえらばない」というやり方は教会のきよさにかえて俗っぽさを流入する。若者を集めるために、といってロックやフォークを持ちこむたぐいである。

 未信者をさそうために自分たちも彼らと同じように世的な遊び、世的な服装をという人は、やがてクリスチャンとしての自覚を弱められてしまい、教会の人たちを「愛がない」とか、「偽善者の集り」などと批判する。そうすることによってしか自分の良心の痛み、告発を逃げられないのだろう。

「教会の真の一致は、健全な教理の上にもたらされる。特に重要なのはキリストとキリストの贖いの福音についての教理である」とある注解者は説いているが、たしかにそうだと思う。

「愛があれば一致できる」という牧師が多いが、私たちはそのような甘言で道を踏みはずしてはならない。

 キリストに対する誤った考え(たとえば、ものみの塔、統一教会、モルモン、近代主義等)を持つ人たちは、キリストを神としてあがめず、愛することもない。もちろん十字架の贖いを否定する。キリストの十字架の苦しみが私のためであったと受け入れているあなたは、キリストへの愛の故に他のものを犠牲にしてこられたはずだ。キリストを愛さない人と一致出来るはずがない。

 キリストを愛する人は、キリストの義と聖とに合わせられることを願う。

 他の兄弟姉妹に対して憎しみを持ち続けたり、救われる前の古い性質の命じるままに行動し、信仰の上ぐすりをかけても、やがては塗料がはげて悪魔の好餌となってゆく。

我ら互いに肢なればなり。汝ら怒るとも罪を犯すな、いきどうりを日の入るまで続くな。悪魔に機を得さすな
     (エペソ書四の二五、二六)

光の子供のごとく歩め
     (エペソ書五の八)


◎ 暗誦聖句  黙示録八章四節
而して香の煙、み使いの手より聖徒たちの祈とともに神の前にのぼれり



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