◆ 延 命 の い の り

        習志野バプテスト教会週報
        一九九八年七月五日号
        ▽主のごとくならまほし


その頃ヒゼキヤ病みて死なんとせしことあり・・・
 ヒゼキヤその面を壁にむけてエホバに祈り、・・・いたく泣けり。
 エホバかく言う、我汝の祈をきけり、汝の涙をみたり。されば汝をいやすべし。
   列王紀略下二十章一〜五節

 旧約聖書の中でヒゼキヤの祈は私たちにはげましをあたえる。

 預言者イザヤに死の近いことを知らされた時、彼はまず神さまに心をむけて祈った。通常考えられるような病気ではなく、はれもので苦しんだ。イザヤは干しいちぢくのかたまりをつけてヒゼキヤのはれものをなおした。

 私たちが祈るとき、どれほどの大胆さをもって祈っているであろうか。

 自分自身の心の中でまず争いがおこる。「こんなことを祈ってもよいのだろうか」とか、「私にはほかの人のように強い信仰がないから、とても祈ることは出来ない」などと、神さまにむかう前にためらってしまうのである。

 顔を壁にむけて祈るとは、彼の苦しさをよく表している描写である。私たちも大きな苦痛を味わうときには、こぶしをふりあげ、壁をたたき頭を壁にこすりつけたり、壁をたたいたりするのではないだろうか。そのような時には誰の制止も耳に入らない。気がすむまで心情を吐き出して祈りつづける。誰かに聞いてもらって気持がおさまるという状態ではない。祈の大切な面がここにあるのではないだろうか。密室で祈れというキリストの意味もこれであろう。

 人間が死ぬか生きるかという瀬戸際に立たされた時、どれほどの力をもって祈ることが出来よう。必死になってという言葉がある。然し死ぬ気になって祈ってもこたえられないことがあるものだ。

 ヒゼキヤは祈りの中に彼自身のそれまでの歩みを強調した。偶像をこわして真の神さまだけを礼拝するようにユダの人を導いたこと。高いところをこわし、エルサレムにおける礼拝の復活などを語った。

 神さまはイザヤを通しておこたえになった。

「我汝の祈をきけり。汝の涙を見たり」

 苦しい時だけ神に祈る姿ではなかった。日毎の生活に神さまのみ心を行うことをつとめたヒゼキヤは、よく預言者イザヤのすすめの言葉を受け入れていた。

 信仰の力は祈のうらづけによる。祈の力は毎日のあなたの神さまに対する姿勢によるといえないだろうか。


◎ 暗誦聖句  黙示録二章九節
我汝のなやみと貧しきとを知る、されど汝は富める者なり


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