◆ はぐくまれる(一)
習志野バプテスト教会週報
信仰生活とは日々の歩みであり、生い育つ過程である。生涯が完成をめざす行程で、目あては主イエス・キリストのお姿に似ることである。 私たちの信仰には卒業ということがない。時には、バプテスマを受けてそのあと全然教会にこない人もあるが、その人たちの言い分は、「キリスト教がわかった」からという。 熱しやすく冷めやすいのが日本人の性質であるとはわかっていても、半年やそこらで信仰の卒業が出来るはずがない。 使徒パウロは私たちの信仰の過程として、ゴールを「主に召される日まで」と心に決めていた。
われ既にとれり、既に全うせられたりと言うにあらず、唯これをとらえんとて追い求む。キリストはこれを得させんとて我をとらえたまえり。兄弟よ、われは既にとらえたりと思わず、唯この一事をつとむ、即ち後のものを忘れ、前のものにむかいてはげみ、めあてをさして進み、神のキリスト・イエスによりて上に召し給う召しにかかわるほうびをえんとてこれを追い求む。されば我らのうち成人したる者は、みなかくのごとき思いをいだくべし…… 「成人したる者は」という言葉に注意しよう。使徒ペテロは、生れたばかりの赤ちゃんのように乳をしたい求めよ、と言った。この二人の表現の間には信仰の成長が必要であることが語られていないだろうか。 温帯地方の樹木には年輪がある。寒暖の変化を通してきざまれてゆくのだが、私たちの信仰も同様である。 「救いは一瞬にして与えられるがクリスチャンの人格形成は一生かかる」とある伝道者が言うように、時間という要素は無視出来ない。 成長するには正しい段階が必要なことをおぼえよう。 第一は、キリストに従うあかしのバプテスマを受けることだ。信仰告白の次のステップである。 第二は、集会を守ることにより、聖書の理解を求め続けることだ。毎日の通読で不明確な部分は紙に書いておいて牧師にたずねよう。 第三は、祈をよろこぶことだ。神様に心をむけることは苦行ではない。心の安らぎであり、確信への道である。 (つづく)
◎ 暗誦聖句 黙示録十一章一節『 』内
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