◆ はぐくまれる(三)

        習志野バプテスト教会週報
        一九九八年八月二日号
        ▽宣教は生命の継続

 信仰の成長の過程は人間の成長の過程に似ている。

 赤ちゃんの段階から子供の時代にうつる。子供の特徴は「まね」であり、元気にあそぶことだ。

わが兄弟よ、人みづから信仰ありといいて、もし行為なくば何の益かあらん。かかる信仰は彼を救いえんや(ヤコブ二・十四)

 生活に信仰をいかすことは楽しくもあり、斗いでもある。子供の頃の苦しみと成人になってからの苦しみは度合いも性質もちがうであろう。今、とても苦しくて耐えられないと思う試練は、五年後、あるいは十年後にふりかえってみる時に、「今思えばおかしいほど苦しんだなあ」と思えるであろう。

 神様は試練と同時にのがれる道をそなえていてくださる(コリント前書十・十三)ことが経験としてわかるようになる。親が子供に背負いきれない重い荷物を負わせることがないように、神様は信仰の幼い人に耐えられない重荷をおあたえにならない。

汝らは恵みにより、信仰によりて救われたり、これおのれによるにあらず、神の賜物なり。行為によるにあらず、これ誇る者のなからんためなり、我らは神に造られたる者にして、神のあらかじめそなえたまいしよきわざに歩むべく、キリスト・イエスの中に造られたるなり=iエペソ書二・八〜十)。信仰が強いから救われたのではない。よい行いをしたからそのごほうびに救われるのでもない。キリストが私の罪をゆるすために身代りとなって十字架上で死んでくださったと信じる信仰が、私をほろびから救い出したのである。それは全く神のあわれみのゆえである。子供は時には、いたずらをするし、わがままも言う。おねだりすることもあり、反抗することもある。

 詩篇を読むとダビデの赤裸々な信仰の叫びをみることが出来る。信仰の父アブラハムも、ヤコブもモーセもそれぞれに子供の時があったのだ。誰もいっきにおとなになることは出来ない。

 日本人は盆栽が好きな民族でありそれなりの価値もあろう。だが信仰の世界での盆栽はノーマルではないことをおぼえておこう。もっと伸びやかに信仰を働かせよう。周囲に気がねはいらない。その日その日にあたえられる食べものを感謝し、よく学びよく遊ぶ(信仰の働らき)なら必ず健康に育つのが神様の方法である。マタイ伝十八・三に記す、
まことに汝らに告ぐ、もし汝らひるがえりて幼児のごとくならずば天国に入るをえじ


                       (つづく)


◎ 暗誦聖句  黙示録十一章十五節
この世の国は我らの主および其のキリストの国となれり。



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