◆ 祝福か呪いか 

        習志野バプテスト教会週報 
        一九九八年一〇月四日号 
        ▽「召しと選びを堅く」
         (ペテロ後書一・十)

”みよ、我今日汝らの前に恵みと呪いをおく。…
 汝の神エホバ汝が行きてえんとする地に汝を導きいりたもう時は汝ゲリ 
ジム山に恵みをおき、エバ山に呪いをおくべし”
    申命記十一章二六、二九節

 神さまの恵みを求めることがあっても呪いを受けたいと願う人はいないはずである。

 だのに神さまの祝福を受けられないでいる人が多いのはなぜだろうか。イスラエルの歴史はそのカギのいくつかを教えるようである。

ア、「ノドもとすぎれば熱さを忘れる」のたぐいで、試練がおさまると地上のことで頭がいっぱいになってしまう。

イ、神さまのきびしさを軽く考えて全能者に対する畏怖の念が欠けてしまう。

ウ、神さまに甘えている。愛の神は人を死においやることはないという考えで、人情的に判断する。

エ、「やろうと思っていたところです」という言いわけ。不従順であることを自覚しながら、実行をあとまわしにしている状態。

オ、信仰を生活にいかそうとせず、観念的にとらえている。

カ、完全にゆだねきっていない。

キ、神の約束に対する疑いと不信仰。

  ◇   ◇   ◇  
 
 

 あなたの集会出席は恵みになっているだろうか。それとも義務的で、よろこびのない出席だろうか。クリスチャンの成長にとって、聖書の学び・祈祷会は欠かせない。自分ひとりで読んでいればよい、と考えるのはごうまんにつながる。

 誰かが手引きをしてくれなければ理解出来ない聖句は数知れない。祈には共同の重荷と力が必要である。主イエスのごりんざいを仰ぐ時だ。

 ささげものについては、どうだろうか。神さまに初穂をささげることはクリスチャンの特権であり、最高の喜びである。毎月の自分たちの必要を全部まかなって、余ったらささげようと考えるなら、祝福はない。

”まず神の国と…”であるから、「神さまには余りもので」というおろかを捨てよう。全ての十分の一の献げものはあなたの信仰と真心のバロメーターであり、取り引きや打算ではない。おくらせたり滞るなら、よろこびは消え、負い目となる。

 十月を期して再出発しようではないか。ヨベルの年と同じに、九月までの遅滞はゆるしていただき、前進しよう。集会、献金、奉仕、学び、あかし、祈りに祝福を願い求めよう。

◎ 暗誦聖句  ヨハネ黙示録 十四章五節
”その口に いつわりなし、彼らは傷なき者なり”

 
 


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