◆ 神を求めて 

        習志野バプテスト教会週報 
        一九九八年一〇月一八日号 
        ▽”イエスをあおぎ見よ”
           ヘブル書十二章二節

           
 ”ここに彼ら言う、「我ら神の業(わざ)を行わんには何をなすべきか。」イエス答えて言い給う、「神の業はそのつかわし給える者を信ずる是なり」”
(ヨハネ六・二八)

 人間は生まれつき神に対して無知である。誰も自分の知恵や努力では創造主であられる神を見出すことは出来ない(コリント前書一・二一、二二)。

”知恵いずこにかある、学者いずこにかある、この世の論者いずこにかある、神は世の知恵をして愚かならしめ給えるにあらずや。世は己の知恵をもて神を知らず”
”生まれつきのままなる人は神のみ霊(たま)のことを受けず、彼には愚かなる者と見ゆればなり。またこれを悟(さと)ることあたわず、み霊のことは霊によりてわきまうべきものなるがゆえなり”
       (コリント前書二・十四)

 日本人はよく”供養”をするという言葉を口にするが、本当に大切なことが何であるかを見出せないでいるのではなかろうか。不まじめであるとか、不信心であるといって非難をしているわけではない。イエスさまに従っていた弟子たちでさえ、このことに本質を知らなかったわけであるから不思議ではない。

 神さまが人間に求めていらっしゃることがわかれば、祝福を受ける道をさぐることも容易になる。

”なんじは供えものをこのみたまわず、もししからずば我これをささげん。なんじまた燔祭をもよろこびたまわず。神のもとめたもうそなえものは、くだけたる霊魂なり神よなんじはくだけたる悔いし心をかろしめたもうまじ”
       (詩篇五一篇十六、十七)

 私たちの遠い先祖は人間の考えうる方法と手段で神の怒りをしずめ、たたりをのがれようとしてきたが、神さまは呪いよりも祝福を、さばきよりも救いをあたえようとなさってこられたのだ。人類はそなえもの(創世記四・二以下)、儀式(サムエル前書十五・二二)、言い伝え(ヨハネ十・二二)、行為(使徒行伝十六・三十)、などによって神に近づき、神の愛顧を受けようとしてきた。

”汝らその言うところにかえて「主のみ心ならば、我ら生きてこのこと或いはかのことをなさん」というべきなり。”(ヤコブ四・十五)

”世と世の欲とは過ぎゆく、されど神のみ心をおこなう者は永遠にとどまるなり”(ヨハネ第一書二・十七)
 
 仕事につまづいた時、あるいは勉強につまづいた時に大切なことは、出発点にもどることだ。まわり道のようだが一番早道だ。さて信仰は?
 

◎ 暗誦聖句   黙示録 十五章三節
”主なる全能の神よ、なんじのみわざは大いなるかな、
 たえなるかな”
 
 


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