◆ 恐 れ に 勝 つ
習志野バプテスト教会週報
”身を殺して霊魂をころしえぬ者どもをおそるな。身と霊魂とをゲヘナにてほろぼしうる者をおそれよ”
”我らは皆必ずキリストのさばきの座の前にあらわれ、善にもあれ、悪にもあれ、おのおのその身になしたることにしたがいて報(むく)いを受くべければなり”
人間は子供の時に経験した恐い体験を忘れることはない。青年期になっても恐怖から全く解放されるということはない。
イエスさまは、「あなたたちも悔いあらためなければ皆ほろびます」(ルカ伝十三・三)と警告をあたえておられる。 子供が歌手のまねをしてオモチャのマイクを手に歌う。大きくなると恥ずかしさが強くなる。時にはステイジ・フライトという表現のとおりに舞台恐怖(あがってしまう)にとりつかれる。 人間は失敗を恐れる。それにともなう敗北感、ざせつ、自我の危機のためであろう。極度の恐怖体験は、生涯消すことの出来ない精神的な傷として残ることもあり、「こわがり」といって馬鹿にしてはならない。 日本各地にまつられているある神社の主神は、源氏の武将である。頼朝を憎みながら死んだおそろしいたたりを他人に向けてほしいというわけだ。
「恐れ」はない方がよいといえるだろうか。恐れの奴隷となることは人間としての生命を否定することになる。しかし、この恐れが核兵器に対する抑止の声となり、あるいは予期される危険から身を守ることになるわけだ。
”これは死の権力をもつもの、すなわち悪魔を死によりて亡し、かつ死の恐れによりて生涯奴隷となりし者どもを解き放ち給わんためなり”(ヘブル書二・十四、十五)。
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