◆ 恐 れ に 勝 つ

        習志野バプテスト教会週報 
        一九九八年一〇月二五日号 
        ▽「昼のうちに働け」 

”身を殺して霊魂をころしえぬ者どもをおそるな。身と霊魂とをゲヘナにてほろぼしうる者をおそれよ” 
          マタイ伝十章二八節 

”我らは皆必ずキリストのさばきの座の前にあらわれ、善にもあれ、悪にもあれ、おのおのその身になしたることにしたがいて報(むく)いを受くべければなり” 
         コリント後書五章十節 

 人間は子供の時に経験した恐い体験を忘れることはない。青年期になっても恐怖から全く解放されるということはない。 
十数年前の二月、東京のホテルが大火災をおこして三十一人が亡くなった。翌日、羽田沖で日航機が着陸失敗。さらにその翌日フィリピンで飛行機がついらくした。三日たて続けに惨事がおきると人々の間に恐怖の思いがつのった。 

 イエスさまは、「あなたたちも悔いあらためなければ皆ほろびます」(ルカ伝十三・三)と警告をあたえておられる。 

 子供が歌手のまねをしてオモチャのマイクを手に歌う。大きくなると恥ずかしさが強くなる。時にはステイジ・フライトという表現のとおりに舞台恐怖(あがってしまう)にとりつかれる。 

 人間は失敗を恐れる。それにともなう敗北感、ざせつ、自我の危機のためであろう。極度の恐怖体験は、生涯消すことの出来ない精神的な傷として残ることもあり、「こわがり」といって馬鹿にしてはならない。 

 日本各地にまつられているある神社の主神は、源氏の武将である。頼朝を憎みながら死んだおそろしいたたりを他人に向けてほしいというわけだ。 
愛情の損失、富の散逸、自我の傷つき、不幸、そして死。どれもが人間に恐怖をあたえる原因となる。米国の医者の研究では、慢性的病気の九十%はセキや胸痛ではなく、恐れからくるという。 

 「恐れ」はない方がよいといえるだろうか。恐れの奴隷となることは人間としての生命を否定することになる。しかし、この恐れが核兵器に対する抑止の声となり、あるいは予期される危険から身を守ることになるわけだ。 
恐怖の中でもとりわけ大きいのは「死の恐れ」であろう。 

”これは死の権力をもつもの、すなわち悪魔を死によりて亡し、かつ死の恐れによりて生涯奴隷となりし者どもを解き放ち給わんためなり”(ヘブル書二・十四、十五)。 
”神もし我らの味方ならば、誰か我らに敵せんや?(ロマ書八・三一)。” 
           
 ◎ 暗誦聖句   黙示録 黙示録十五章四節 
”主よ、たれか汝をおそれざる、誰かみ名を尊ばざる、 
 なんじのみ聖なり” 
 
 


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