◆ 神の栄光のため
習志野バプテスト教会週報
旧約聖書に多く見られる描写の一つは、神の栄光である。
”かくて祭司聖所より出でけるに雲エホバの家にみちたれば、祭司は雲のために立ちてつかうることあたわざりき。そはエホバの栄光エホバの家にみちたればなり” (列王上八・十、十一) 日頃キリストの十字架を強調されている新約時代の私たちは、ともするとキリストの栄光を見失ってしまい、意気そそうすることがある。 使徒パウロの信仰のよろこびをさぐるならば、彼の力のひみつは彼が主イエスの栄光を絶えず見つめて歩んだからだといえないだろうか。 ”主は即ちみ霊なり、主のみ霊のあるところには自由あり。我らはみな顔おおいなくして鏡にうつるごとく、主の栄光を見、栄光より栄光にすすみ、主たるみ霊によりて主と同じ像(かたち)に化するなり” (コリント後三・十八) 私たちの信仰の目ざすところも同じである。この世のさまざまな雑念とくらべるなら、なんと大きなちがいであろうか。なんと高い幻であろうか。それは確実におこることなのだから、今の苦しみはつかのまのことである。私たちは天地の創造主を思い描こうとしても不可能なことだ。しかし、イエス・キリストを通して真の神を知ることが出来るのだ(ヨハネ一・十八)。” ”イエス言い給う「今や人の子、栄光をうく、神も彼によりて栄光をうけ給う。神かれによりて栄光をうけ給わば、神も己によりて彼に栄光を与えたまわん、直ちに与え給うべし」” (ヨハネ十三・三一、三二) 私たちが手近に神の栄光を拝する方法がある。一日一日の歩みにベストをつくし、最上のものを神にささげること(ペテロ前四・十一)によってである。もう一つは日日の祈による。 ”汝らがわが名によりて願うことは我みな之をなさん、父、子によりて栄光を受け給わんためなり”
一日一日、お互いに一つの目標をもとう。コリント前書十章三一節、
◎ 暗誦聖句 黙示録 十六章七節
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