◆ 信ぜし者には 

        習志野バプテスト教会週報 
        一九九八年一一月一五日号 
        ▽キリストに目を注ごう 

”されど之を受けし者、即ちその名を信ぜし者には、神の子となる権(けん)をあたえたまえり”
                        ヨハネ伝一章十二節 

 私たちが「信じる」という時、必ずしも聖書的な意味においてその言葉を使っているわけではない。 

 子供たちは、昔から約束ごとをするときに、こんな表現を節をつけて言ってきたものである。 

「やくそくゲンマン、うそついたら針千本のーます」 

 実はそう歌いながらも、千本どころか一本の針でものませたという話はきかないから、それ自体がウソにすぎないわけである。 

 近頃では流行らなくなったようだが、「ウッソー。信じられない!」という若い人たちの言葉にも信じることの少ない世代の一面がある。 
ずい分昔だが、「あなたの息子を信じなさい。ホレ信じなさい」と歌った人があって、もてはやされた。 

「おねがいだから、これだけは信じてください」 

などと言われてだまされるお人好しもあとをたゝない世の中だ。 

▽ キリストを信じるということは知的に、そして歴史上の事実として受け入れることである。聖書の教えから考えるならば、キリストを受け入れるということと、キリストを信じるということは同義語である。私たちの救い主としてキリストに信頼をおき、キリストをそのまま心に迎え入れることが、キリストのみ名を信じるということだ。この世にこられた言(ことば)の啓示を受け入れるための鍵である。 

 私たちがキリストをそのお言葉通りに受け入れる結果、神さまと新しい関係に入る。そして神の家族の一員となる権利を得るのである。 

 私たちがキリストを信じると言う時、まず、イエス・キリストがたしかにこの地上に生活をなさったことを知的に認めることである。救い主として信じるということは、そのおっしゃった言葉と行いとが一致していて、いつわりがなく、罪のカケラもなかったと認めることである。更に、イエス・キリストのなさったみわざを事実として承認し、イエスのお言葉と対比したときに、全くその通りになったと認めるのだ。確実だとわかったら、その約束の一つ一つを自分のためにも有効だと考え、それにもとづいた、行動をおこし、裁き主に全てをゆだねることだ。 

”わが名によりて祈れ”とキリストがおっしゃるとき、あなたがその通りに行動をおこすなら、あなたは信じている者といえよう。 
神の子の特権を毎日いただこう。 
           

◎ 暗誦聖句   黙示録 十六章七節 
「然り、主なる全能の神よ、なんじの審判は真なるかな、 義なるかな」 
 


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