◆ いつわりなき弟子

        習志野バプテスト教会週報 
        一九九八年一一月二二日号 
        ▽キリストにある希望

”我とともならぬ者は我にそむき、我とともに集めぬ 者は散らすなり”  
           マタイ伝十二章三十節

 旗色を鮮明にするという言葉がある。どうもこれは日本人向きの行動ではないらしい。

 「ジャパニーズ・マインド」(RCクリストファー著)というかたい本がずい分売れたという。かつて「日本教・・・」という日本人批評がベストセラーになったのと相通じるところがあるのだろうか。

 ー日本人は個人が直接に対立することをきらう。そこで対立をさけるために、ほとんどの場合コンセンサスを得て動こうとする。これは、日本のハンディキャップであるが、また同時に強さともなっている。ー(五二ページ)ーどういう形であれ、自己主張の強い者は厳しくたしなめられる。「出るくいは打たれる」というのは、日本でよく知られた諺の一つである。ー

 日本人の一人として何か恥ずかしいところをのぞかれた思いではないか。実はそれほどまでに私たちは他人の目を気にして生きているわけであろう。

”我よりも父または母を愛する者は我にふさわしからず。我よりも息子または娘を愛する者は、我にふさわしからず。又おのが十字架をとりて我に従わぬ者は、我にふさわしからず。生命をうる者は、これを失い、我がために生命を失う者は、これをうべし。”
          マタイ伝十章三七?三九節

 日本の封建時代、そして過去百年ほどの間に私たちの親たちは、さんざん苦しめられてきた。そして処世の術として旗色をにごらしてきたのであろう。

 「責任が多くあっても、あなたが果たすべき責任は決してぶつかることはない」とある伝道者は言った。

 私たちが救い主イエスさまにささげる愛は、家庭にあって親や伴侶に向ける愛と争うことはないはずだ。

 日常生活で私たちは、自分自身の弱さ、無思慮、怠惰を考えずに口だけで信仰をふりまわしてはいないだろうか。信仰をダシにして自分をかばおうとするならばおそかれ早かれ責任のぶつかり合いを経験する。

 一見矛盾するように思える聖句も、私たちが本当の弟子となろうとするかどうかを考えさせる警鐘である。

 ”汝らがあいし試みは人の常ならぬはなし。神は真実なれば、汝らを耐えしのぶことあたわぬほどの試みにあわせ給わず・・・”
    コリント前書十章十三節

すきとおった弟子になろう。

◎ 暗誦聖句   黙示録 ヨハネ黙示録十六章十六節
”かの三つの霊、王たちをヘブル語にてハルマゲドンととなうる所に集めたり。”


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