◆ エホバにかえれ
習志野バプテスト教会週報
”なんじは知らざる国民をまねかん なんじをしらざる国民はなんじのもとに走りきたらん。・・・ なんじらあうことを得る間にエホバをたずねよ、 近くいたもう間によびもとめよ”
私たちは日本に生まれ育ち、日本の習慣・風俗の中につかっている。一年中どこかでお祭りさわぎのない日はない国である。考えられるありとあらゆる型の宗教がひしめいている風土の中で、聖書を手にし、活ける真の神キリストを仰ぎみることが出来たのは恵みそのものである。 ”律法はモーセによりて与えられ、恵みと真理とはイエス・キリストによりて来れるなり。いまだ神を見し者なし、ただ父のふところにいます独り子の神のみ之をあらわし給えり”
人類が神からいただいた最大の贈りものは、このイエス・キリストである。私たちは神を探求し続け、暗中もさくをするが、イエス・キリストを見上げる時、「知られざる神に」対する旅路は終わりを告げるのである。 ”我を信ずる者は我を信ずるにあらず、我をつかわし給いし者を信じ我を見る者は我をつかわし給いし者を見るなり”
聖書を通じて神さまは私たちに対して招きの声をかけてくださっている。人は苦しみに出あった時だけ神をよび求めるのが常であるが、神さまは変わることのない愛をもって私たちが神さまのみもとに立ちかえるのを待っていてくださるのだ。 ”エホバにかえれ”
あなたはまだ若く、自分には無限の可能性があり、チャンスは今だけでなくこれからもめぐってくると思っていらっしゃるかもしれない。 だが、神さまの時計は決して止まることなく、狂うことなく、うごいていて一人一人に心の耳をすまし、心の眼を見開いてチャンスを逃すことのないようにと警告をしておられるのがこの六節であろう。 ”豊かにゆるしをあたえ給わん”(七節) たとえ枚挙にいとまがないような数多くの罪であろうとも、あるいは殺人という恐ろしい罪を犯した者にでも、神のゆるしは及んでいるのだ。人をえらぶこともなければ、罪の重さによってこばむこともなさらない神のゆるしは何と豊かな愛であろう。
◎暗誦聖句 マタイ伝二四章十三節
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