◆ 神 に よ る 力 

        習志野バプテスト教会週報 
        一九九八年一二月六日号 
        ▽ゆれ動く地に立ちて
         なお十字架は輝けり

”エホバに感謝せよ エホバは恵み深く
そのあわれみ 永遠に絶ゆることなし”
        詩篇一一八篇一節

 詩篇一一三篇からはじまるハレル(又は讃歌)の六番目であり、イスラエルにおいては過越の祭り、ペンテコステ、幕屋の祭り等に歌われるという(スポルジョン)

*エホバに感謝せよ。

 日日の安全、生命、愛、善など数えあげればきりがない。世界各地に今日も生命を堵して自由のために戦っている人があり、あるいは幼い子供たちが人形ばくだんの危険に身をさらしていることを思えば、日本の平和は何と感謝なことであろう。五十余年前の日本は大変だった。空襲と食糧難、不安の毎日であった。イスラエルの人にとっては安全はタダで手に入らない。私たちが享受している平和は神の賜物である。

*恵み深く。

 神さまは気まぐれでなく、暴力的でなく、独裁的でない。怒り給うことおそい。

*悩みの中より・・・

 詩篇五十・十五 ”なやみの日に我をよべ。我汝をたすけん。而して汝我をあがむべし”
 「広きところに」(あるいは開けた土地ともいえる)。狭い道を進み、急坂をのぼって行くと急に目の前がひらけて周囲が見わたせる。自由と開放感をあたえる場といえよう。この反対はせまい所といえるだろう。
”せまき門より入れ、ほろびにいたる門は大きく、その道はひろく、之より入る者多し”(マタイ七・十三)。
 ほろびとは(一)細くなること、(二)事物の限界、(三)すべてのものの投獄、などを意味するという。せまいものの中にとじこめられ、どんどんきゅうくつになる人生、それはちょうど魚が河で人間につかまえられる姿に似ている。泳いでバック出来ない魚は竹の中にとじこめられ生命を失う。
なやみの中から神さまをよび求めるとき、天の援軍にかこまれ、広い所におかれる人は幸いである。

*エホバわがかたにいませばわれにおそれなし。

主イエスの弟子パウロは生命の危険にさらされることは数えきれなかった。だが彼は常に大きな確信にみたされて異邦人伝道にはげんだ。それはこの「神我とともにいます」の信仰であった。エレミヤ一・八に記す”なんじ彼らの顔を恐るるなかれ、そは我汝と共にありて汝を救うべければなりとエホバ言い給えり”
 
 


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