◆ 日 毎 の 献 身
習志野バプテスト教会週報
「新年だからといって、昨日と今日の時間の長さがかわったり、夜中に誰かが私のかかえる仕事を片づけてくれるわけでもない。だのに私たちは、一年の区切りを新しい決心の時として迎えるのだ。」とある伝道者は書いているが、そのとうりだと思う。 若い頃は毎年のように新年の決意を日記帳に書いたものだが、一週間と続かなかった。まず日記からして長続きをしないのである。殆んど何も書きこんでいないノートが何冊もたまっている。住所録だけが使われたページである。 クリスマスの黙想として、昨年のイヴにはヨハネ伝三章十六節の「あたえる」という言葉をとりあげた。寒風の吹く中、一年ぶりにお会いするなつかしい人たちが数人お見えになり、感激した。十二月二四、二五日が休日でない日本でイヴの集会を持つことがどんな意味があるのかと思わないでもないが、一年に一度、この日にはぜひ教会に行こうと考えてこられる人がいることを思うと、又今年も計画しなければと思う。 神様は独り子キリストをこの世におあたえくださったのである。「送られた」という時、ある使命を託すことだが、「あたえる」ということはちがう。罪の世が主イエスをどのように扱っても自由であるということではなかろうか。人類は自分たちの好きなようにメシヤを十字架につけてしまったのだ。
使徒パウロは、自分の救いが一日だけのもの、喜びが一回だけのものではなく、永遠に続く神様の賜物であると考えた。箴言二三章には「わが子よ、汝の心を我にあたえ、汝の目にわが道を楽しめ」とある。 ”このゆえに我らは気おちせず、我らが外なる人はやぶ るれども、内なる人は日日にあらたなり。”(コリント後書四・十六) 神様の愛に対して真心からの愛を以ておこたえしよう。
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