◆ きたれ、かえれ 

        習志野バプテスト教会週報 
        一九九九年一月一七日号 
        ▽”我につける義人は信仰によりて生くべし”

”ああ汝ら渇ける者ことごとく水にきたれ 金なき者もきたるべし 汝らきたりて買い求めてくらえ きたれ金なく価なくしてぶどうしゅと乳とを買え”
”汝らあうことをうる間にエホバをたずねよ 近くいたもう間によびもとめよ”  イザヤ書五五章一、六節

 前章においてイスラエルの民に対する招きをなさった神は、この章では選民ではない民、すなわち全世界の民に対する大いなる招きをあたえてくださる。

 ぶどうしゅと乳とは、力とよろこび、栄養をあたえることである。

 金のない者もきなさい、買い求めて食べなさい、とはどういうことだろうか、それはお金を出して品物を買う人は、自分の所有権を主張出来る。それと同じように、神様のくださる豊かな祝福は誰もあなたからうばいとることは出来ないというのである。

”あざむきとりし糧は人にうまし、されど後にはその口に砂をみたされん
(箴言二十・十七)”

 神さまのくださるものと悪魔のさし出すものとのちがいがよくわかる。
人は自分の好きな宗教をえらぶのだという。だが、私たちが神様をよび求めるずっと前から、神様は私たちを招いていてくださったのだ(四、五節)。

 霊的な祝福を受けるためには、
  ア、主を求めること。
  イ、近くいたもう間によびもとめること。
が不可欠である。信仰は強制ではないが、無関心であってはいけない。

”すべて主のみ名をよび求むる者はすくわるべし  (ロマ書十・十三)”

 神様のあわれみにすべてを投げかけ、よりたのむことが必要である。
「いつか」と人は言う。「また別の機会に」と。はたしてどのくらい私たちの「いつか」があてになるのだろう。誰も明日の生命のことをしらないし、チャンスがいつもあるとはかぎらない。いや、チャンスが少ないからこそ、チャンスをねらうのではないだろうか。

 神様の語りかけをいつまでもこばんでいるとやがてさばきの時がくる。その時になってから悔やんでもとりかえしがつかない(ルカ十六・二六、二七)

”エホバにかえれ”七節

かえるということは、そこに以前いたことをあらわす、たとえあなたはそのことを知らず、あるいは否定しても、神様は創造主としてお命じになっていらっしゃる。

人は母親のふところにかえる以上に霊魂の父にかえる必要がある。
 

 ◎ 暗誦聖句    黙示録十七章十四節
”彼らは小羊と戦わん、しかして小羊彼らに勝ち給うべし”
 


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