◆ 何 が 基 準 か
習志野バプテスト教会週報
”二種のふんどうはエホバに憎まる。いつわりの はかりは善からず”
日本でも数十年前までは、天秤ばかりというのがあって、廃品回収業の人はこれを持ち歩いてボロの目方をはかったものだ。六十センチほどのさおの片側にふんどうをさげ、もう一方には品物をさげる。基準となるべき分銅をかえて使えば当然、重量はちがって示される。 量目をごまかすことは昔も今もかわらないし、どの国にも悪徳業者はいるものだ。 大きなスーパーでは入れものの重さを展示して、正味がどれほどかを表示しているが、小売店ではそこまでしない。かつてのハカリは店の人にだけにわかるように目盛は片側だけについていた。両側につくようになったのはそう遠くない昔だ。 日本人はこの種のことに大変寛容であるようだ。もちろん自分の目の前で不正がなされているのを見つければ抗議をいうこともあろう。だが一般的に、男性はひっこんでしまうことが多いようだ。まわりの人の注意をひくことが苦手なのだ。 「ながいものには巻かれろ」
経済の発展があれば、国の指導者がどのような私生活であっても目をつぶるという大国ははたして神様の祝福を受けつづけられるのだろうか。
ゆれ動く地にあって私たちは何を人生の基盤にすべきだろうか。人心の動きにあわせる風見鶏となるのか、それとも永遠の神の基準に凡ての行動の基準を求めるべきなのだろうか。いずれの場合もその実を刈りとるのは私たち自身であることをおぼえよう。 ”ほふられ給いし小羊こそ、能力と富と知恵と権威と尊崇と栄光と賛美とを受くるにふさわしけれ”
◎ 暗誦聖句 黙示録十七章十四節後半
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