◆ 数字のトリコ

        習志野バプテスト教会週報 
        一九九九年一月三一日号 
        ▽新会堂建築のため祈ろう
 

”デマスはこの世を愛し、我をすててテサロニケに行き、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマテヤに行きて、唯ルカのみ我とともにおるなり。・・・わが始めの弁明のとき誰も我を助けず、みな我をすてたり、願わくはこの罪の彼らに帰せざらんことを。”
       テモテ後書四章十〜十六節

 世の中、すべて「数(かず)の大きさがものをいう」時代なのであろうか。政治や商売の世界に限ったことではない。
日本の宗教集団が数をきそうようになってから久しい。こんなことを言った人がいる。

「Sは何百万人の信者がいると自慢しているが、数ばかり多くたって何の価値もないものがある。水たまりにはボーフラが数えきれないほどいるが、自まん出来るものではない」ボーフラと人間をくらべるのは極論だが、ちょっとした皮肉である。

 考えてみれば、数の大きいことをよろこぶ風潮は今はじまったことではない。もう二十数年も前にブームのきざしはあったのだ。アメリカの教会でもこの競争は激烈であった。伝道者は数をきそい、小さな教会の牧師たちは、こぞって「ハウ・トゥ・ブースト・ザ・チャーチ」というような出席増加方法講習会に参加した。ここで紹介するのがはずかしいような、そして怒りたくなるようなものまで宗教誌をにぎわせたものだ。

 いま、私の頭にはいくつかの国の集会がうかんでくる。いずれも大きな集会だった。

 韓国の教会、大変元気なさんびと熱気。そして冬のしめきった会堂にたちこめるガーリックのにおい。平気で長い説教を聞く老母たち。

 台湾。どことなく、とりすました紳士、淑女の集まりといった感じの割あい落ちついた集会。さんびのテンポもおそいほうである。かつてのような熱心さはみられず、生活のために働かなければならないから礼拝は休むことも・・・。

 インド。テレビは本当にめずらしい。なにせラジカセでさえ貴重品なのだ。楽器といえば昔からの小さな民族たいことタンバリンだけ。町に一台のアコーディオンで伴奏されると大人も子供も大声で歌う。手びょうしをとり、時にからだを左右にふりながら。集会は延々四時間にもなることがある。

 フィリピン。蚊がとんでくる。虫がいる。あつい。だが人々は熱心に福音をきく。よく「主のつるぎ」に接しているから耳がこえている。青年が続々と献身をして学び、開拓伝道に従事している。

 さて、日本のばあいは?

 ◎ 暗誦聖句    ヨハネ黙示録十八章二節
”大いなるバビロンは倒れたり、倒れたり”
 


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