◆ 愛 の 一 致
習志野バプテスト教会週報
”兄弟よ、われ霊に属する者に対するごとく汝らに語ることあたわず、かえって肉に属するもの、即ちキリストにある幼児に対するごとく語れり。 われ汝らに乳のみ飲ませて堅き食物を与えざりき。汝らそのとき食らうことあたわざりしゆえなり。 今もなお食らうことあたわず、今もなお肉に属する者なればなり。汝らの中にねたみと争いあるは、これ肉に属する者にして世の人のごとくに歩むならずや。 ある者は「われパウロに属す」といい、ある者は「われアポロに属す」という、これ世の人のごとくなるにあらずや。 アポロは何者ぞ、パウロは何者ぞ、彼らはおのおの主の賜うところにしたがい、汝らをして信ぜしめたる役者(えきしゃ)に過ぎざるなり。 我は植え、アポロは水そそげり、されど育てたるは神なり。されば植うる者も、水そそぐ者も数うるにたらず、ただ尊きは育てたもう神なり。 植うる者も、水そそぐ者も帰する所は一つなれど、おのおの己が労にしたがいてその価を得べし。我らは神と共に働く者なり。汝らは神の畠なり、建物なり。”
使徒パウロは特別な使命を受けて新約聖書の各書簡を書いた。ロマ書はキリストの救いの根本的教理、ガラテヤ書は信仰義認について、ピリピ書はクリスチャン生活の中心ーキリストのへりくだり、キリストの知識、キリストの御臨在等。そしてコリント前書においては霊的、道徳的な問題と質問、教会内の紛争、偶像崇拝、公的礼拝、復活の教理などを中心に教えている。 聖書は決して人間の世界を美化して書いていない。キリストの弟子たちの間におこった優先順位争い、パウロとペテロの間におこった対立関係、或はパウロとマルコという若者をめぐっておきたバルナバとの離別など、信仰者に不可解とも思える人間の赤裸々な姿が描かれている。 言い換えるなら、だからこそ聖書は真実なのだと言えよう。「くさいものにはフタ」式の生き方はない。問題を掘り下げて、その原因が何であるかを指摘する。そこに浮きぼりとなってくるのは、人間の霊的な成長が不可欠であり、真の御言葉の理解は肉の思いやこの世の知恵に優先するということだ。 主イエス・キリストはクリスチャン一人一人が、主にならって謙遜になるように強調なさった(ヨハネ一三・一四)。ロマ書一二・三〜五、ピリピ書二・一〜一一にもパウロは真の一致への鍵を教えている。 ”愛は多くの罪をおおう。”(聖書)
◎ 暗誦聖句 黙示録 十九章一節後半
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