◆ ただキリストのみ 

        習志野バプテスト教会週報 
        一九九九年二月一四日号 
        ▽真理にさからいてちからなし
          コリント後書一三章八節

”愛する者よ、汝らを試みんとて来たれる火のごとき試練を異ることとして怪しまず、かえってキリストの苦しみにあずかれば、あずかるほど喜べ、汝ら彼の栄光のあらわれん時にも喜び楽しまんためなり。

もし汝らキリストの名のためにそしられなば幸いなり。栄光の御霊、すなわち神の御霊汝らの上に留り給えばなり。

汝らのうち誰にても或いは人殺し、あるいは盗人、あるいは悪を行う者、あるいはみだりに他人の事に干渉する者となりて苦しみにあうな。

されどもしクリスチャンたるをもて苦しみを受けなば、之を恥ずることなく、かえってこの名によりて神を崇めよ。

既に時いたれり、さばきは神の家より始るべし。

まず我らより始るとせば、神の福音に従わざる者のその果ては如何ぞや。

義人もし辛うじて救わるるならば、不敬虔なるもの、罪ある者はいずこにか立たん。

されば神の御心に従いて苦しみを受くる者は、善を行いて己が霊魂を真実なる造り主にゆだねまつるべし。”
        ペテロ前書四章一二?十九節

 使徒パウロは同胞を愛した。と同時に異邦人宣教の召しを喜びとして、神につかえた。しかし心ないユダヤ人や異教徒たちは彼の働きを妨害し、中傷と迫害をやめようとしなかった。彼の使徒としての立場を否定して神にさからった。ある人たちはパウロが金銭の扱いで不正を働いているかのような批難を加えて彼の募金をさまたげた。彼の教えはまちがっているといって、信者の心を真理から離そうとした者もいた。(使徒二十・二九以下)(コリント後八・二十)。彼はすてられた(テモテ後四・十六)。

 使徒パウロをささえた信仰は何であったろうか。それはキリストが彼の中に生きてくださっているという慰めだった(ガラテヤ二・二十)。彼はキリストにすべてをゆだねた。

”我は汝らにさばかれ、或いは人のさばきによりてさばかるることをいと小さき事とし、また自らも己をさばかず、我自ら責むべき所あるを覚えねど、之によりて義とせらるることなければなり。我をさばき給う者は主なり。”(コリント前四・三以下)

 人間は人を誤解したり、早合点をしてさばいたり、無責任な発言で他人をつまづかせる。信仰生活は決して楽な道ではない。自己否定のいばらの道だ。然し、全能の神がいつも共にいて守り、導き、ささえてくださる平安と力の歩みだ。信仰の導き手キリストを仰ごう。
 
 

 ◎ 暗誦聖句    黙示録 十九章一節後半
「ハレルヤ、救いと栄光と権力とは、我らの神のものなり」
 


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