◆ ヤコブの生涯(二)
習志野バプテスト教会週報
"我は汝の父アブラハムの神なり。おそるるなかれ、我汝とともにありて汝をめぐみ、わがしもべアブラハムのために汝の子孫を増さんと。"
だが残念なことにエサウではこの祝福を受けつぐ資格はなさそうであった。更に悪いことに、エサウはカナンの女二人を妻として家にひき入れたのである。 "彼らはイサクとリベカの心のうれいとなれり"(二六・三五)とある。 創世記二七章に入ると舞台は一変してヤコブの母リベカの策略による祝福の横どりが記されている。 イスラエルの国民にとっては是が非でも隠しておきたい先祖の恥であるが、聖書は人間のプライドも恥もかくすことなく事件のてんまつを教えている。
▽ イサク老いて目くもりて……一節 人間誰でも年をとるわけであるからそれ事態が悪いことではない。イサクは長子のエサウを呼んで、自分はいつ死ぬかわからないから、せめてあの鹿の肉をたべて別れの時にそなえたい、と言うのであった。 病人が季節はずれのくだものを食べたいと言うと家族は少々高くても無理をして買ってきて食べさせてあげようとする。イサクの霊の目はくもり、食欲が美味を追い求めた。サムエル記にも祭司エリの目のくもりを記述しているが、エリは自分の二人の息子たちの悪業をやめさせることが出来なかったために、神の呪いを受けねばならなかったとある。ああ、年をとっても霊の目がくもらないように祈ろう。 エサウが鹿狩りに行っている間に、リベカはヤコブにお父さんをだます方策を教え、事がバレた場合には自分が責任をとるから、と悪へさそいこんだ。リベカは二人の息子の誕生にあたって神さまの預言をあたえられていたのだが、神さまの時と方法を待たずに、自分たちのあさはかな知恵で祝福を得ようとしたところに問題があった。 "欲はらみて罪を生み、罪なりて死を生む。"(ヤコブ書一・一五)
◎ 暗誦聖句 黙示録二十章十一節
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