◆ ヤコブの生涯(五) 

        習志野バプテスト教会週報 
        一九九九年五月二日号 
        ▽主の訓練をよろこぼう
 

 一人の人の生涯も、聖書の記述のようにほんの二、三行で終わったとしたら、私たちは一体どのような言葉で自分の一生を評価されることになるのだろうか。

 ヤコブの不正直な態度、親に対する罪、兄へのずるさなど、ヤコブの半生はどうもかんばしくない。母親リベカに大変かわいがられたわけだから、家庭においてはよく働き、すなおに見えたのであろう。何かにつけて母親に依存するようだった。悪いことだとはわかっていても母に言われると「ノウ」と言えなかった。今でいうところの意志が弱い男性である。

 父の家をはなれてまもなく(ハランへはまだ遠い道のりだった)天の使いたちがはしごを昇り降りする姿を見てそこをベテルと名付けたことは前回学んだことである。

 ヤコブはそこで三つの仮約束をしたのだか、私たちもやりそうなことである。何かうれしいことがあったり、大きな感激をすると自分の感情で約束をしたり、誓ったりする。新約聖書をみると、主イエスに従ったペテロもそのような人物の典型であったことがわかる。

 ベテルにおいて神のお約束をいただいたあとの足どりは軽かった。心にうれいと恐れがあるときは食欲もわかない。ベテルのあとのの記述がないことは順調に旅をつづけたということであろう。三日月形の肥沃の地域といわれた一部にハランがある。カランとも呼ばれている。

 かつてカルデヤのウルを出たアブラハム一家もここでとどまったことがある。子供の頃から父親に先祖の歴史を聞かされていたヤコブにとってはゆかりの土地だ。

 新聞に"大富豪の息子ヤコブきたる!”などと見出しが出る時代ではない。然し、それだけにハランの近くで出会った人たちはこのニュースを町にふれまわったことだろう。よい知らせ・福音、を私たちも多くの人に知らせる責任がある。ヤコブを迎えたのは羊と羊かいであった。主イエス・キリストのご誕生を最初に知らされたのも羊かいたちだった。

"我らは皆羊のごとくまよいて己己おのが道にむかいゆけり。然るにエホバはわれら凡てのものの不義をかれの上におきたまえり"
(イザヤ書五三章六節)

とあるように神さまは祝福のまえに私たちの弱さを知らせ、牧者が必要だということを暗示しておられるのではなかろうか。自分の力を過信し、自分の浅知恵で約束された神の祝福を手に入れようとしたヤコブ。

 父イサクの嫁さがしに来たアブラハムの家令エレアゼルは、リベカとラバンのためにたくさんの金銀財宝の贈り物をもってきた。ヤコブはその手にどんな贈り物を携えたのか。私たちは主の御前にどんな贈り物をささげることが出来るだろう?
                 ( 続 く )
 
 

◎ 暗誦聖句   箴言十六章三節
「なんじの作為(わざ)をエホバに託(まか)せよ、さらば汝の謀(はか)るところ必ず成るべし」
 
 


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