◆ ヤコブの生涯(六) 

        習志野バプテスト教会週報 
        一九九九年五月三〇日号 
        ▽十字架の意味を再考 
 

 聖書を読むと理解がむずかしい問題に直面することがある。

 伝道者が聖書を学ぶことは当然であるが、すべての答があるわけでもないし、先人たちの書物に解決があるわけでもない。学生時代にこんなことを教わった、「わからないことは、わからないと正直に言うことが大切である。」

 近親結婚、あるいは二人の妻をもつことなども難解なところだ。

 ラバンにはその頃息子がいなかったらしい。そこでラバンはヤコブを自分の息子として(一五節)むかえ入れたようである。ラバンには嫁入り前の娘が二人いた。その名はレアとラケル。妹のラケルは容姿が美しく、ヤコブの心をとらえてはなさなかった。姉のレアは、どちらかというとひかえめで、ひとり信仰になぐさめを見いだした女性のようである。彼女の目はやさしかったと注解書は書いている。どこかの広告にあったような「君のひとみは…万ボルト」ではなかった。しかし、なまめかしい眼よりも、やさしい眼に恵みがくだったのであろう。目は心の窓といわれるから、レアの目は心をあらわしていたと思われる。そんな彼女は父ラバンの計略など知る由もなかったのであろうか。

 ヤコブは愛するラケルとともにいるだけで十分であった。家庭をもってからは欲も出るが、結婚するまでの二人にとってはこの上ない甘い交際時期が続いた。七年はずい分長いが、ヤコブは少しも苦しいとは思わなかったのである。ラケルほどの美しい女性はめったにいない。ひくてあまたの中で、自分がお嫁にもらえるなら幸いだと考えたのであろう。結納の金品をもたない彼にとっては働くことで解決されるならたやすいことだった(二〇節)。

 いよいよ待ちに待った婚礼の日がきた。天幕に入りきれないほど多くの人があつまって酒宴がもたれた。ヤコブも客たちとともに酔ったことだろう。こうこうたる明かりの下ならともかく、うすぐらい天幕の中、しかも酔眼もうろうとした男には、花嫁衣装をつけた女性であれば誰でも恋するラケルに見えたのも不思議ではない。七年間の思いのたけをからだと言葉でありったけ表現して初夜をすごしたのだが…。まぶしい陽ざしがすきまをぬって女の顔を照らした。

 こともあろうにそれは恋するラケルの姉レアではないか。はかられた、と気づいたヤコブはラバンのところにとんでいった。ラバンはあわてる様子もなくヤコブを納得させたのである。テモテ後書三章一三節参照。

                 ( 続 く )
 

◎ 暗誦聖句   ヨハネ黙示録二二章十七節前半
”み霊も花嫁もいう「来り給え」聞く者もいえ「来り給え」と。”

 


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