◆ ヤコブの生涯(七) 

        習志野バプテスト教会週報 
        一九九九年六月六日号 
        ▽主のみもとで祈を学ぼう 
 

 私たちは一般に自分の尺度をもって他人をはかるものである。

 かつてはアメリカ人がイランにとらわれていた時、新聞にイラン人との交渉術なるものがのった。こまかいことはおぼえていないが、私たちの社会通念や正義感からは想像もつかない別世界の基準であった。

 「自分のものは自分のもの。他人のものも自分のもの」「相手がゆずるのは当りまえ。自分は絶対ゆずらない。 ゆずる方が悪いのだ。」
そんなような内容であった。日本は非キリスト教国とはいえ、私たちはかなり厳しい社会の規則をもっているが、アラブ諸国では考え方の基盤が全くちがうのだ。

 ヤコブとラバンのやりとりは現代的尺度をもってしても理解しにくいところである。

 ヤコブは、ベテルにおいて地上から天に通じるはしごをみ使いたちがのぼりおりするのを夢の中で見た。いかにも神様への絶対の信頼が芽ばえたかのようであるが神様は彼に対する訓練を終えられたわけではなかった。むしろ、それは長い訓練と自我を神様にあけわたすための苦難の出発であった。

 ラバンは信仰に生きた人ではなかった。妹の子供をむかえはしたものの、自分が損をするようなことは一切考えようとはしなかった。彼のやり口はヤコブが兄エサウをだましたことに通じる。レアをヤコブとそわせることで、もう七年間、自分のもとにヤコブをおいておくことが出来ると考えた。ヤコブがどんなにラケルを好きだといえ、姉のレアと夫婦のちぎりをかわさせてしまえば社会的にはヤコブをひきはなすものはない、とふんだのだ。

 ヤコブはラバンにだまされたことを知って大いに怒ったが手おくれである。結婚という人生の大きな節目にまんまとあざむかれてしまったが、ヤコブの考え方もラバンと大差はなかった。決して信仰者の生き方とはいえない。仕かえしを考えたのだから。

 気の毒なのはレアである。父に何を言いふくめられたかはわからないが、七年も生活を共にしたヤコブと結ばれたというので胸おどらせたのもほんの一晩。妹のラケルと激しいうばい合いをしなければならなかった。愛されずに同じ天幕にすむレアを神様は見捨てゝはおかれなかった。彼女の信仰のゆえに子供をさずけてくださった。魅力のある女性必ずしも信仰的とはいえないが、信仰の女性もまたねたみから完全に解放されたとはいえなかった。新約の時代に生きる私たちは、主キリストによって霊魂の自由を持つことが出来るようにされている。ライバルのために祈るのである。
 
                ( 続 く )
 

◎暗誦聖句   黙示録 二二章十七節後半
”渇く者は来れ、望む者は価(あたい)なくして生命の 水をうけよ ”
 


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