◆ ヤコブの生涯(九) 

        習志野バプテスト教会週報 
        一九九九年六月二〇日号 
        ▽ はばたきへの準備を
 
 創世記三一章一節からみるとその行間にかくされた人間のはげしいいがみ合いと、神様の介入があることに気がつく。

 一節 ここにヤコブ、ラバンの子らが…言うを聞けり。
 二節 またヤコブ、ラバンの顔を見るに己に対することまえの如くならず。
 三節 時にエホバ、ヤコブに言い給いけるは…。

 ヤコブが伯父ラバンをたずねて養子となって(多くの学者の説)から二〇年余。その間にラバンは自分の息子をもつことが出来たらしい。自分の子供が出来たとなると、ヤコブに財産を相続させるのがいやになったようだ。食事の席とか談合の時などにヤコブを悪く言うのがあたりまえとなり。息子たちもそんなラバンの言葉をそのまま信じこんだのだろう。ヤコブからみれば自分の子供のような若者たちに、根も葉もない中傷を受けて愉快でいられるはずがない。ましてや、ラバンのものを盗んで金持になったなどと言われてはがまんが出来なかった。

 人は美しい言葉やおせじを口にしても、本心がともなっていなければ相手にすぐわかるものである。ラケルとレアを妻としてラバンにつかえていたヤコブに対するラバンの表情には純すいな愛のまなざしがないことを知ったヤコブは苦しんだ。ラバンのもとに居づらくなったからといってすぐ両親の待つ地にもどるわけにはいかなかった。そこには彼の生命をねらう兄エサウがいるからだった。前門の虎、後門のおおかみ、といった心境であったと思われる。

 そんな彼の迷いと苦悩をごらんになった神様は、彼に「汝の父の国に帰り汝の親族にいたれ。我汝とともにおらん」とおっしゃった。自分の知恵や策略にたよらず、神様の御手にすべてをおゆだねする時に最高、最善の解決がえられることを学びたいものだ。

”われら四方よりなやみを受くれども窮せず、せんかたつくれども希望を失わず、責めらるれどもすてられず、たおさるれども亡びず…(コリント後書四・八)”

 神様はヤコブの弱さ、人間的な欲望などすべてご存知でありながら、前のお約束をお捨てにならず、「我汝とともにおらん」とおっしゃった。信仰のよろこび、強さは自分の力ではなく、この真の神様におしたがいするところにある。

 神様の導きを求める私たちにとって大切なことは、タイミングを学ぶことだといわれる。ソロモン王も伝道之書に言う、「すべてのことには時あり…」。

◎暗誦聖句   
”もし之に加ふる者あらば、神はこの書に記されたる苦難を彼に加へ給はん。(黙示録二二章一八節後半)”
 


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