◆ ヤコブの生涯(11) 

        習志野バプテスト教会週報 
        一九九九年七月四日号 
        ▽新会堂のため祈ろう
 

 ヤコブの言い分を考えると、彼がどれほどラバンにつくしたかがわかる。やはり神様が祝福を与えるとおおせになるだけの人物であった。ラバンが見ていようが見ていまいが誠実に委託された羊や山羊の飼育をした。

”しもべたる者よ、キリストに従うごとくおそれおののき、真心をもて肉につける主人に従え。人をよろこばする者のごとく、ただ目の前のことのみをつとめず、キリストの僕のごとく心より神の御旨をおこない、人につかうるごとくせず、主につかうるごとく快くつかえよ。そは奴隷にもあれ、自主にもあれ、おのおのおこなう善きわざによりて主よりその報(むく)いを受くることを汝ら知ればなり。主人たる者よ、汝らも僕に対しかく行いておびやかしをやめよ、そは彼らと汝らとの主は天にいましてかたより見給うことなきを知ればなり”(エペソ六・五〜九)

 ラバンはヤコブの持っていた力をありったけ使わせて自分の宮をふやすことに夢中であった。ヤコブが祝福の管(くだ)となったのである。後世にサムソンは自分の力の秘密は髪の毛にあるともらしたが、ヤコブの祝福が彼の畜産技術にあったというわけではないことをおぼえなければならない。あくまでも祝福の源は神様にあるのであるから。

 三一章三節からは殆んど一節おきに「神」という字が目につくことにお気づきであろうか。これはヤコブが信仰をもやされ、霊的な祝福の高嶺にあったことをあらわすであろう。

 ヤコブの逃避計画を明かされたレアとラケルは、自分たちの父をとることよりも夫のヤコブに聞き従うことをえらんだ。板ばさみの選択であったろう。

”我らは父に他人のごとくせらるるにあらずや。そは父我らを売り又我らの金を食いへらしたればなり。… さればすべて神の汝に言い給いし事をなせ”(三一・一五、一六)

 ラケルとレアの言葉はヤコブをはげました。ラケルは父ラバンのもっていたテラピム(ぐうぞうの一つ)をぬすみ出して自分の守護神のように扱ったようだ。これは小さな人形のような像で、ラケルが衣服の下にかくすことが出来たほどである。ラバンが追いかけてこれをとりもどそうとしたのは、テラピムの像は家督相続の正当な印となったからともいわれる。

 ヤコブ一家が逃げたと知るやラバンは兄弟をひきいてあとを追った。夜、神様はラバンにのぞまれ、善くも悪くもヤコブに言うなかれとお告げになった。

 神様によりたのむ者は幸いである。営をつらねて神の軍勢がその子らを守ってくださるのだから。
          ( 続 く )

◎暗誦聖句  エペソ書一章二節
”願くは我らの父なる神および主イエス・キリストより賜ふ恩恵と平安と汝らに在らんことを。”
 
 


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