◆ ヤコブの生涯(12) 

        習志野バプテスト教会週報 
        一九九九年七月一一日号 
        ▽十字架の死にいたるまで従い
 
「我らは父に他人のごとくせらるるにあらずや。そは父我らを売り、又我らの金をくいへらしたればなり。」            
 (創世記三一章一五節)

 親子を結びつけるきずなは何だろうか。

 家柄、財産、名誉、家系、憎しみ、愛、人脈、などいくつかが重なっていることもあろう。

 親子の断絶と言われて数年たつが、聖書の中にはすでに四千年近くも前の家庭の悲劇として記されている。人間は昔も今も本質的には変わっていないのである。

 ラバンはヤコブを利用し、ヤコブはラバンのもとで大きな祝福を神から受けた。ヤコブと二人の妻は家庭と愛で結ばれていたが、ラバンとの関係は冷たくなるばかりであった。嫁・姑ではなくて、婿・舅の険悪な関係であった。その上、財産分与の問題もからんで父娘は最悪の状態へとつき進んでいった。ヤコブは家族と家畜(当時の重要な財産)をひきつれ、ひそかにラバンのもとを離れていった。

 もし、神様が二人の間に入ってとりなしてくださらなかったとしたら?今日のイスラエルはもちろん、ヤコブの生命さえなかったかもしれない。(創三一章二四節)

 ラバンはヤコブの群に追いつくや、「家の守り神テラピムをなぜ盗んだのか!」とはげしくつめよった。ラケルが盗んだことを知らなかったヤコブは、犯人を殺してもいい、とまで言ってしまった。ラケルはなぜテラピムを盗んだのであろうか。ラバンの家には異教的な偶像崇拝が入りこんでいたといえる。そして更に大事な点は、このテラピムを持っている者が正当な後継者として認められるということだった、と学者は言う。

 何とかしてテラピムをとりかえし、あとからヤコブが財産をとりにこないようにとラバンは懸命にテラピムを捜したが見つからなかった。ラバンの偶像は、汚れた(レビ記一五章一九節、一八章一九節)。ラケルがその上に腰をおろして隠していた。何という皮肉であったろう。 ギレアデにおけるヤコブとラバンの契約は、ラバンの最後の防戦であった。今後ヤコブとその家族が相続権をもち出しておびやかすことのないようにという下心からだった。「神我と汝のあいだにいまして証をなしたもう」と言ったのはヤコブではなく、ラバンであった。不信仰な人ほど、神の名をみだりにとなえるもののようである(出エジプト記二〇章三、四、七節)。

 後方からの追手をのがれたヤコブを待ちうけていたのは四百人の手勢をひきつれた兄エサウであった。

「願わくは我が兄の手より…我を救い出し給え。我彼をおそる。」(創世記三二章一一節)

”悪人に平安なし”(イザヤ書五七章二一節)

◎暗誦聖句  エペソ書一章七節  
”我らは彼にありて恩恵の富にしたがい、その血によりて贖罪、すなわち罪の赦しを得たり。”
  
 


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