◆ ヤコブの生涯(15) 

        習志野バプテスト教会週報 
        一九九九年八月一五日号 
        ▽家族そろって礼拝のよろこび
 

”(ヤコブ)みずから彼らの前に進み七度身を地にかがめて遂に兄に近づけるにエサウ走りて之をむかえ抱きてそのくびをかかえて之に口づけす。しかして二人ともに泣けり。”
  創世記三三章三、四節

 兄エサウが手の者四百人をひきいてヤコブをむかえに出てきた時、ヤコブは生きた心地がしなかった。自分が一番愛するラケルとヨセフを隊列の最後に並ばせ、前列には仕女(つかえめ)たちとその子供らを進ませた。
ところが兄エサウはヤコブと戦うために進んできたのではなかった。ラバンのもとにあったヤコブを守り、訓練をおあたえになった神は、エサウにも訓練と祝福とをあたえておられたのである。

 エサウはヤコブの姿を見て走っていった。抱きかかえて涙ながらにヤコブを迎えたのである。

 これは私たちの霊的な学びとしてであるが、放蕩息子の例話を想起させる。神様はエサウのようなお方ではないが、信仰のない人たちからみれば、あたかもエサウのように恐怖心をおこさせる存在ではないだろうか。

 人間は神様をこわがり、神様が私たちを愛して迎えてくださることを信じようとしない。恐れが喜びとかえられるのを知るのはいつの日だろうか。
神様がヤコブのために争ってくださった時、エサウの心は憎しみではなく、弟への愛に変えられたのである。

”神もし我らの味方ならば、誰か我らに敵せんや” (ロマ書八・三一)

”エホバもし人の道を喜ばば、その人の敵をも之とやわらがしむべし。”(箴言一六・七)

 ヤコブはこれより前に神に祈り求めた。ヤボクの渡りでの一夜は大きな信仰の前進であった。しかし、ヤコブの世的な知恵はまだ彼をとらえていた。エサウと抱きあって再会をよろこんだものの、エサウと共にセイルに行かなかった(十二、十六節)。兄には南のセイルにあとから行くと言いながら、ヤコブが向かったのは北であった。

 三四章には悲しい出来ごとが記されている。ヤコブはシケムの町に数年とどまったようである。ヤコブの一人娘ディナは家族の天幕をはなれて町の中に出入りをしたようだ。ユダヤの歴史家ヨセフォスは、多分この町のお祭りの時にディナがシケム(ハモルの子)にかどわかされたのだろうという。ディナの美しさは町の青年たちの評判だったのであろう。

 私たちはこの世とのかかわり合いにおいて注意をしなくてはならない警告をみる。ヨハネ第一、二・一五〜六
”汝ら世をも世にある物をも愛すな。…”

◎暗誦聖句  エペソ書三章六節後半
 


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