◆ ヤコブの生涯(16)
習志野バプテスト教会週報
兄エサウと共にセイルへ行かずにシケムにとどまったことは彼ら家族に祝福をもたらさなかったようである。 ”ここに神ヤコブに言いたまいけるは立ちてベテルにのぼりてかしこにおり、汝がさきに兄エサウの顔をさけて逃ぐる時に汝にあらわれし神にかしこにて壇をきづけと。ヤコブすなわちその家の人およびすべて己とともなる者に言う。汝らの中にある異(ことなる)神を捨て身をきよめて衣服を替えよ。我ら立ちてベテルに登らん。かしこにて我わが苦しみの日に我にこたえ、わが行く所の道にて我と共にいませし神に壇を築くべし。”
さまざまな人生の非喜を味わったヤコブではあったが神さまとの関係は必ずしも満足すべき状態にはなかったのである。順境の日には神を忘れ、逆境の日には神に泣きつくという私たちと同じような弱さを持った人間ヤコブ。神さまは忍耐深いお方ではあるが、いつまでも私たちのなまぬるさをほおっておかれるわけではない。 神さまに壇を築くということは礼拝と献身のあらわれである。 ”神は霊なれば、拝する者も霊と真とをもて拝すべきなり”
”汝なやめる時呼びしかば我汝を救えり。… 我が民よ聞け、我汝にあかしせん。イスラエルよ、汝が我に従わんことを求む。汝のうちに他神あるべからず。汝あだし神を拝むべからず。”
ヤコブの献身、祈りを思う時、なぜ彼が家族の中の偶像崇拝をする者を見過ごしにしていたのが不思議であるが、私たちに彼を責める資格があるだろうか。女性達は耳かざりを差し出した。多分、魔よけのまじないとしてのものであったろう。(ヨセフォス説)。一般に女性のかざりとなっている物も源をたどると要注意の物がたくさんある。みんながやっているから…というものさしは神さまには通用しないのだ。 「すべての偶像をくだきたまえ」(聖歌五四五) ◎暗誦聖句 エペソ書四章七節
|