◆ ペテロの生涯(2) 

        習志野バプテスト教会週報 
        一九九九年九月二六日号 
        ▽キリストのからだ…教会

”彼ら直ちに網をすてて従えり”
        マルコ伝一章一八節

 信仰生活には正しい順序がある。「学問に王道なし」といわれるが、それは救いにおいても同様である。

 ある伝道者は長年の経験からこう言った。

「偉大な人物は単純な信仰の持主である」

 教会の歴史において重要な位置をしめる使徒ペテロといえどもその求道から献身への道は私たちとかわらないのである。

”せまき門より入れ、ほろびにいたる門は大きく、その道は広く、これより入る者おゝし。生命にいたる門はせまく、その道は細く、これを見出すもの少なし。”
と、主イエスは救いへの第一歩をお教えになった。誰も例外ではない。

 キリストの十二弟子のリーダー格となったペテロは、はじめ弟のアンデレによってキリストのもとにつれて行かれた。「われらメシヤ(キリスト)にあえり」という言葉にシモン・ペテロは半信半疑で従った。家族をキリストに導くことはむずかしい。”連れきたれり”という聖書の記述に真実さを感じる。

 シモンはイエスさまにお会いした時、まず自己紹介をする前にイエスさまから名前をよばれておどろいた。

 創世記三章八、九節をふりかえってみよう。
”エホバ神の声を聞きしかばアダムとその妻即ちエホバ
 神の顔をさけて園の樹の間に身をかくせり。
 エホバ神アダムをよびて之に言いたまいけるは汝はいずこにおるや”

 神さまはアダムの居場所をご存知ないわけではなかったのになぜだろう?

 アダムとエバに罪の自覚(認罪)をおこさせるためではなかったろうか。私たちは自分自身の罪深い姿を認める(せまい門)ことから始まるが、認罪は神のみ前に立たされなければおこらないだろう。キリストの罪に対するきびしさ、罪人を救おうとなさる愛の深さの前に私たちはひれふすのだ。
 
 シモンは親からもらった名前である。神さまの救いを受ける前の古い性質そのものである。福音書にみるシモンの活躍と失敗は、私たちに肉の弱さを教える。頭で知っていても、意志と霊が神さまにあけわたされていない時の人間である。そんなシモンはイエスさまを地上の王として考えたから、十字架の話を聞くと、「そんなことを人に知られたら大変です、誰もついてこなくなりますよ」と言ってイエスさまに叱られた。

 シモンが新しい性質(キリストの生命)をいただいてペテロといわれてからの奉仕は、火の試練に勝った。
                  ( 続 く )
 

◎ 暗誦聖句  エペソ書五章十八後半十九前半
”むしろ御霊にてみたされ、詩と賛美と霊の歌とをもて語り合い、…”
 
 
 
 
 


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